☆'15 3/27
No.114 福岡
ダイやん父
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発症から3年5ヶ月、先月5歳になった息子の場合です。肝切除のあと、両肺を中心に次々と現れる転移性の腫瘍に11度の開胸手術で対処してきました。経過を書きます。AFPの数値は概数です。
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■2011年10月、1歳8ヶ月のとき発症。地元は福岡県ですが、事情により祖父母宅のある愛知県の病院で治療を開始。
入院時、AFP129万。原発巣は12センチ。多量の腹水、腹膜播種あり。両肺に多数の転移巣あり。
肝切除前の化学療法は、@半量CITA、ACITA、BITEC、と進む。AFPは@のあと46万、Aのあと3万4000までさがるが、Bのあと35万まで上昇。肺の転移巣も消えず。
■2012年2月、肝臓3区域切除。手術後AFPは60まで下がる。
■肝切除後、CCITA、Dテモダール併用イリノテカン、と化学療法が進むが奏功せず。肺転移巣は憎悪。
■3月、肝芽腫の会に問い合わせ、肺転移治療関連の資料を送ってもらう。
■4月、神奈川県の病院でセカンドオピニオン。「開胸手術で肺転移巣切除。再発してもまた開胸・切除。化学療法なし」の方針が示される。もとの病院では放射線治療併用の大量化学療法が検討されていた。
■同月、神奈川県の病院に転院。AFP300。左肺部分切除(病巣は1個)。翌週に右肺も部分切除(8個)。退院し、以後は福岡県の病院で定期けんさ、再発したら神奈川県の病院で手術という構え。AFPは8まで下がるが、その後上昇。
■7月、AFP60。右肺部分切除(5個)。AFP下がらず。
■8月、AFP130。左肺部分切除(5個)。AFPは7まで下がるが、その後上昇。
■10月、AFP60。右肺部分切除(1個)。AFP下がらず。病理検査で複数の娘病巣(衛星病巣)が見つかり、断端陽性の診断。
■11月、AFP170。右肺断端追加切除。AFP下がらず。再発場所わからず。
■12月、AFP300。「ICG蛍光法」を導入して左肺側試験開胸。縦隔リンパ節に病巣が見つかり切除(1個)。AFPは5まで下がるが、その後緩やかに上昇。
■2013年10月、AFP170。左肺部分切除(2個)。AFPは13まで下がるが、その後上昇。
■11月、AFP150。左肺部分切除(3個)、左肺下横隔膜病巣切除(1個)。AFPは28まで下がるが、その後ゆるやかに上昇。
■2014年2月、AFP60。左胸膜病巣切除(1個)。AFPは1まで下がるが、その後上昇。
■5月、AFP70。左胸膜病巣切除(前回切除部付近。1個)。肋骨の1つをいったん切離し、病巣とその周辺の筋肉(内肋間筋)を幾分か大きく取る手術。AFP下がる。
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2014年5月の手術から現在まで再発の兆候はありません。AFPは1〜3で落ち着いています。普通の子どもと比べて運動能力が遅れていますが、あえて入園させた体育会系の幼稚園で鍛えられ、遠足を5キロ完歩、マラソンを(ビリながらも)1キロ完走するほどになりました。
切除した転移巣のサイズは、大きなもので1センチほど、平均5ミリぐらいです。組織分類は、全体に、胎児型(高分化型)と胎芽型(低分化型)の混在型。原発巣は前者寄りでした。
肺転移巣に対して、取りきるまで何度でも開胸し、切除を行うという方法は、現在ではよく知られ、事例も増えているようです。息子の場合は、肺周辺への転移など想定外の事態も加わり、治療が長期化しました。しかし、1度の手術で入院は5〜6日、退院後はすぐに普通の生活に戻れます。呼吸機能など身体の不調もいまのところなさそうです。QOLが損なわれたと感じることなく、ここまできました。良い医師と良い治療法にめぐりあえたと思っています。
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☆'08 8/13
ゆうじの父親
(会員ではありませんが以前からメールでのやりとりをしていた方です) |
日付:2008年7月27日 13:12:45
タイトル:元気に小学校6年の夏休み!
ご無沙汰しております。
3年前に手術して、昨年1月から学校に通い現在では6年生の夏休みを迎えています。9歳の我が子が何故って思いで過ごした看護生活が懐かしく想い出されます。
久しぶりにこのサイトを拝見させてもらいました。全国で数多くの子供達や親御さんがこの病気と闘っている様子が伺えます。原因がはっきりしないこの病気、一日も早く治られますことをお祈りしております。
我が子も退院後は元気に学校に通っており、担任の先生の優しい心遣いで体育のプール授業にも出席をしております。難聴と身長の発達程度の遅さへの心配はありますが、定期的な検診も安定した状況ですので、このまま無事に過ごせればと思っております。我が子も闘病生活で、他の患者さんや看護士さんの動きをよく見ており将来は人を助ける仕事に携わりたいとの夢を持っています。この子が成人するまでにこの病気の原因が突き止めれば、予防方法や治療方法も改善されると思います。
地方にいる当方はなんらお手伝いができませんが、皆様の今後とものご活躍をお祈り申し上げます。
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☆'08 6/13
001 神奈川
そうちゃんママ |
※発症から9年目、退院して8年目の爽の現在です。
発症時2才3ヶ月で5年生存率60%と言われ、再発の恐れもあるとして骨髄の凍結保存もした爽ですが、その後一度も再発はせずに2008年4月からは小学校6年生になりました。
2年生の夏にふらつきや軽い頭痛があって念のため病院で検査をしたら、頭蓋内出血がありました。当初は「二次がんの脳腫瘍」と言われたのですが詳しい検査で少し時間が経った出血による血腫でした。それから1年くらいは始めようとしていたスイミングもキャンセルしていましたが、4年生からはスイミングも習い始めました。出血はもともとあった脳の静脈奇形からでしたが、静脈奇形からの出血も稀な上に静脈奇形があって化学療法を受けた症例がないので化学療法による影響かどうかの証明は出来ませんが、そういうこともあるかもしれないとのことでした。血腫はいまでもまだ消えていないので、とりあえず脳外科に年に1度通って画像検査を受けています。また、脳圧が高くなるようなことは少し気をつけるようにしています。
他にも聴力障害や身長が低い、矮小歯などいくつか晩期障害はありますし、体力がいまいち続かなかったりセラピーを受けたりしていますが、普通に学校に通って頑張っています。
セラピーは退院時に情緒不安定だったために受診したのですが、知能検査でも1才10ヶ月遅れていて、社交的であるという以外は自閉症のような症状もあったためです。長期入院によるストレスや経験不足が原因だろうとのことで、臨床心理士さんからもいろいろアドバイスを受け1年後には1才2ヶ月遅れまで差を縮めました。小学校へ入学してからは、クラスメートの様子を見て自分でもいろいろなことが遅れていると分かったようで、本当に必死に毎日を送っている様子で、その頃は緊張が急に溶けるのか学校から帰るなりよく泣いていました。実際いじめもあったり今でも多少はあるようですが、頑張って今では知能的には追いついています。
またあれほどひどかった偏食も学校に入って給食になってから残すことが悔しいらしく(勉強でなかなか追いつけないので、せめて給食は全部食べることで自信をつけたかったようです)、少しずついろんなものが食べられるようになりました。また以前は年に何回か突然の激しい腹痛と嘔吐のためにこども医療で点滴をしてもらうことがあったのですが、最近ではその回数もかなり少なくなっています。ただ胆のうがないためか、急いで食べなくてはならなかったり、油ものを多めに食べたりすると腹痛を起こすので、「ウルソ」という薬を処方してもらって腹痛の時には服用しています。
退院時には「どうか小学校へちゃんといけますように」と心から願っていましたが、気がつくともう来年は中学生です。
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☆'04 10/3
岡山
うーたん |
うちの子は生後7日目に腹部にしこりがあるのを産院で発見されました。すぐに大きな病院にうつり検査をしましたが、腫瘍の大きさの割りにAFP値が40万台と低い上、新生児の肝芽腫は稀であることから、血管腫か肝芽腫か現段階では判別できないとNICUでしばらく様子を見ることに。しかし、徐々にAFP値が上昇してきたので、生後一ヶ月の時、腹部を切開し腫瘍の一部を摘出して確認することになりました。
結果、PRETEXT-3の低分化型の肝芽腫と判明しました。
手術前に化学療法を3回行い、生後3ヶ月の時に手術。肝臓のおよそ三分の一を摘出しました。その後、化学療法を3回。もう一回行う予定だったのですが、最後の治療で赤ちゃんの体にはあまりに薬がきつかったのか、高熱のために痙攣を何度もおこし、あまりに苦しそうだったために、私も医師も同意の上で最後の一回はとりやめることになりました。
退院後は週一度の通院。しかし予後が悪くAFP値が100台をなかなか切りませんでした。
通院2年目にしてようやくAFPが安定して10前後に。ようやくほっとしました。
しかし先日、CTで左肺に1cmほどの白い影が発見されました。3歳の誕生日を迎えたばかりでした。
放射線科の方の意見ではこれまでの経緯を考えれば再発の可能性が高いということでしたが、担当医師にはAFP値が1桁の状態で肝芽腫の再発は考えにくいと言われました。10月末に肺のCTを再度撮る予定ですが、それまで不安でたまりません。それに約1ヵ月も放置している間に、再発だった場合、腫瘍が大きくなってしまわないか心配です。
今は最後の化学療法を無理してでもやってもらうべきだったのかな、と自分の判断を悔やんでいます。とにかく再発でないことを神様に願うばかりです。
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☆'04 9/22
九州
しまおママ |
※ ずっと「肝芽腫疑い」でしたが、術後の検査で良性の「血管腫」と分かったお子さんの入院から退院 までの経過です。
うちの子は次男で生後一ヶ月でした。(上の子はこの頃一歳半)
なんだか少し普通の赤ちゃんよりおなかが大きいな・・と思ってましたが赤ちゃんは大抵おなかがでてるもんだから・・・と思ってました。(今思うともっとはやく病院にいくべきでした)
一ヶ月検診で産婦人科の先生に肝臓が腫れていることと貧血があることを指摘され今日はもう遅いので明日朝一で県内で有名な総合病院にいくことをいわれました。その日はなかなか眠れずもし大変な病気だったらどうしようと考えると涙がでたりしました。
次の日総合病院に行くと、貧血状態であることと、お腹の張りは肝臓が腫れているのではなく、腫瘍であることを指摘され、手術が必要になるのでここでは対処できない、小児外科のある大学病院に今すぐ行くよう言われました。
大学病院?!!ちょうどその頃【白い巨塔】がテレビで盛り上がってる真っ最中で大学病院に良い印象はなかった時だったのでとてもイヤでしたがそんなことはいってられずタクシーをとばして行きました。
そこでいわれた事は、まちがいなくお腹の張りは腫瘍であり、おそらく九割悪性であること、即入院で半年〜一年かかると言うことでした。ちょうど主人の転勤と重なり、上の子ともはなれて友達も親戚もいない所で次男と私は病院に入院することになりました。
肝臓からでている腫瘍だけどAFP値が正常な為、お腹の腫瘍は何かわからない状態でした。
当初、DIC(*播種性血管内凝固症候群)と言う状態で非常に出血しやすく血もとまりにくく腫瘍もどんどん大きくなっていたので、少し腫瘍を取って検査すると言うこともできず、いきなり手術の話になりました。
しかし、あまりの腫瘍の勢いで手術をするには危険な状態になったのと、呼吸状態が悪くなり、出血しやすい状態だったので脳内出血かもしれないといわれCT検査室に移され、待つ間は生きたここちがしませんでした。このときはほんとに障害が残ってもいいから命だけは助けてくれと言う状態でした。肺に二酸化炭素がたまり入院一週間後にNICUに移されました。
ちかくのファミリーハウスでお世話になっていましたが、一日30分の面会時間することもなく、敵が何かわからないまま手探りでの治療が続きました。化学療法も先行させ二回やりました。生後まもなかったので量は三分の一でした。一回目はそれでもききめがあり腫瘍が小さくなってくれましたが二回目はむしろ大きくなったため一ヶ月半のNICU生活後手術となりました。
三時間の手術でした。手術を終えて先生がにこにこして無事おわりました!と言ってくれた時はほんとうにうれしかったです。そのとき「そんなに悪いものではなさそうですよ!」といってくれました。
ICUそして観察室にうつりました。
主治医の先生が「良性でしたよ!血管腫です。」といってくれたときはほんとにうれしかった。と言うより信じられませんでした。手術後、そんなに悪い物ではない・・と言う言葉は、悪性だけどタチの悪い物ではないと言う意味でとらえてたので、ええ!!??マジですか?!!って感じでした。
それまでさんざん泣いて泣いてそれでも小児がんと戦う覚悟もして、退院後の通院のことも考えてNICUにいる間にと運転免許までとりました。
今でも通院しています。
長い間呼吸器をつけていたので鎮静の影響かわかりませんが目に眼振があります。
耳鼻科と眼科を受診しましたがとくに異常はみあたらず、水頭症でもないので小児科でも診てもらっていくようになりました。
大学病院に良い印象はなかったですが、私の入院した病院は先生も看護婦さんもとてもよかったです。
初めて外来に行って一度しか話したことない先生とNICUで会った時、誰のお母さんかもわかんないだろうな・・と思いつつ、会釈すると、私のことを覚えてくれてて色々主人の転勤の事や子供の状態のことも言ってくださったことに驚きました。
即日入院が決まって、別室で泣きじゃくる私が入ってきた看護婦さんに「腫瘍なんかできてなおりますか?」ときいたら、軽く「なおりますよ。おかげさまで二十歳になりました〜って手紙がきたり元気に走り回ってる子もいっぱいいますよ。なおりますなおります」と笑顔で励ましてくれた時はほんとに救われました。
主治医の先生方は夜遅くまで残っている姿をしょっちゅう見かけました。気になる事はいつでもきいてくださいとしつこい私にもイヤな顔せず話ししてくれました。(それでもきいても断定してもらえないようなことはそうちゃんママさんにかなりメールでお世話になりました)お腹の端から端までの大きな傷を時間をかけて丁寧に内側に縫い目をいれてきれいにしてくれたことも感謝しています。
そしてファミリーハウスでお世話になっている間、毎日ではありませんがしょちゅうネットカフェに行ってはここのHPをのぞかせてもらいました。(当時は肝芽腫の可能性が高いといわれていたので)
掲示板でやりきれない気持ちを書き込むと何人もの方が励ましてくれました。そうちゃんママにもなんどもメールさせてもらいました。
今次男は七ヶ月、眼振もなんとなく良くなってる気もしますがまだあります。でもミルクもよく飲み、離乳食もはじめました。
標準くらいの大きさだと思います。上の子も一時は母親と離れ不安定でしたが下の子が大好きみたいでかわいがってくれます。二歳になったばかりでもお兄ちゃんの自覚があるのか・・・不思議ですね。
九割悪性と言われても良性でした。データはデータでしかないんですね。
HPをみてる人のお子さんでもしも九割助からないといわれても一割が起こす奇跡もあるって思って欲しいです。
私もまだまだ未熟ですが少しだけ強くなれたような気がします。
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☆'04 8/13
愛媛 006
タムタム |
再々再発後の手術、化学療法が終ってもうすぐ1年が経ちます。
AFPは正常値ではないけれど、とりあえず安定しています。
うちの子供は肝芽腫のほかに出産時のトラブルが原因で知的、身体に重い障害があります。
もうすぐ3歳ですが、お座りもできず、話すこともできません。
身障手帳1級と療育手帳を持っています。
今年の4月から障害児の通園施設に通園しています。
うまく言えませんが、肝芽腫にならなければ、重度の障害をもったこの子を受け入れることができたかどう
か自信がありません。
私にとってこの病気がなければ「障害があってもいいから生きていて欲しい」とは思えなかったでしょう。。
再発するたびに、障害のことは「生きていてさえくれれば、まあいっかぁー」って気持ちが強くなりました。
ある意味、私はこの病気に精神的には救われた気がしています。
もちろん、もう再発は絶対絶対絶対、イヤですよー。
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☆'04 1/18
福岡 011
こうえいママ |
こうえいが肝芽腫と分かったのは4ヶ月検診の直前でした。 最初はパパがお風呂に入れているときお腹のしこりに気づきました。でもまさか自分の子供が病気なんて考えもしなかったので「なんだろうね」なんてのん気に構えていました。そして次の日にこうえいは初めてミルクを大量に吐いたので、「これはおかしい・・・」と思って近くの小児科に連れて行ったところ、あれよあれよという間に今の大学病院に入院となったのです。
最初のAFPは15万3千で、左の肝臓に大きな(10センチくらい)腫瘍があり転移はなくステージUで5年生存率は80%と小児外科の教授とこれから主治医となる先生からお話がありました。
入院してすぐにCITA(*シスプラチンとTHPアドリアマイシンという2種類の抗がん剤による治療)が始まりましたが、こうえいはまだ生後4ケ月だったので薬の量は40%と少ない量でした。2回目は50%、3回目からはIVHも入り、60%と少しずつ増えていきました。薬の量が少なかったのでやはり副作用も少なかったと思います。
骨髄抑制は白血球が1000を切る事はなかっのですが、好中球が低くなったのでG-CSFを5〜6回ほど皮下注射しました。輸血はMAP(*濃厚赤血球)と血小板を1〜2回し、薬のあと少し食欲が落ちる程度で体重も順調に増え続け、髪の毛もほとんど抜けませんでした。
それでも2回目の治療後の骨髄抑制の時は風邪を引かせてしまい、そこから肺炎にまでなってしまい良くなるのに2ヶ月くらいかかりました。この時の私は、副作用の本当の怖さをよく分かっていなくて、目先の副作用(吐き気や脱毛など)にばかり気をとられていました。本当にこうえいには申し訳ないことをしたと思っています。
こうえいの場合、CITAの後AFPは下がるのですが腫瘍の勢いが強く、薬の前にはまたAFPが上がってしまうの繰り返しで、腫瘍の中は壊死しているのに外側が固くてなかなか小さくなってくれませんでした。
結局、CITAは術前に5回やり、やっと小さく(7センチくらい)なったということで手術に向けての準備が始まったのです。血管造影とTACE(*動注塞栓法)をして次はいよいよ手術となりました。 左の肝臓を全部取る「肝左葉切除術」をして、術後の化学療法はCITAを60%と約30%の計2回でAFP6.6で退院となりました。入院期間は7ヶ月半でした。
退院後は週1回の外来で様子を見ていくとのことです。
振り返るとあっという間の7ヶ月半ですが、入院した時は本当に先が見えず不安で気が狂いそうでした。それでも、日に日に成長していくこうえいを見るたびに挫けてはいけないと自分を奮い立たせ、付き添いのお母さんたちに何度も励まされてここまでやってこれました。そして、主人と実家の母と3人でこうえいの病気を治すために必死で頑張ってきました。実家の母には神奈川から福岡へ来てもらい、毎日の病院通いと家のことをしてもらい感謝の気持ちでいっぱいです。こうえいの命は色んな人に助けられた「命」だとつくづく思います。
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☆'03 12/5
熊本 005
はるちゃんママ
(3/1投稿以降の経過) |
3月以来送っていなかったので、「うちの子の場合」の続きを送ります。
自家移植の予定まで、書いたと思うので、その後の経過を送ります。
AFP80の時点で再発肺転移と分かり、オペになりました。7ミリの腫瘍が摘出されました。右脇下に10センチの傷ができました。抜糸がすんだ後、すぐに自家移植の前処置が始まりました。
エトポシド、カルボプラチン、メルファランを1週間かけて流しました。
流している間も、特別変わった様子はなく、とても元気でした。
1日あけて自家幹細胞を移植しました。注射器で一気に流したので、1回吐きあげましたが、その後はケロッとしていました。その後は、さすがにきつそうでしたが、2,3日たつとまたふつうの元気のよいはるちゃんに戻っていました。
食事はしばらく全く受け付けませんでしたが、栄養点滴のおかげで、やせることなく、とても元気に過ごせました。また、クリーンルームにはシャワーも付いているのですが、移植の間中ずっとそのシャワーを楽しみに浴びていました。水遊び感覚で・・・。こんな子はこれまで見たことない、と看護婦さんにも言われてしまいました。でも、親にとっては、つらい治療中でも元気にしていてくれことだけが、たった1つの大きな救いでした。
そうこうする間に1ヶ月半のクリーンルーム生活も終わり、大部屋に移ることができました。
けれど、骨髄抑制もかなりひどく、いったん出られても何度か病気に感染してクリーンルームに戻ることになりました。
でもその後経過は順調で、退院まで特に何もなく過ごすことができました。退院時のAFPは2。
6ヶ月後の現在は3,7と、一応安定した状態にあります。
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☆'03 10/23
神奈川 017
いっちゃんママ
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うちの子は、ちょうど1年前の2歳3ケ月の時、「肝芽腫」と診断されました。入院した時は、すでにAFPが954000、ステージVでした。すぐに摘出するのは不可能だったので、まず化学療法を行う事になりました。
2コース終了して手術する事ができ、腫瘍は目に見える範囲は、全摘出できたと言う事でしたが、術後の2コース目の途中で、AFPが上昇してしまい、次にITECを行ないました。
1コースで15まで下がったのですが、2コース目を始める直前に再び上昇してしまい、次はITECをやめて、造血幹細胞移植を行なう事になりました。
しかし、治療をしてから3週間後には、またAFPが上昇してしまい、今の所、これ以上効果のある抗癌剤はないと言う事、副作用や後遺症のリスクを考えたら、治療を続けるよりも、画像上で確認出来るようになったら手術で摘出する方がよいと言う事で血液の回復を待って、今年の5月末退院しました。
AFPはその後下がって、退院時には16、7月には7まで下がったのですが、8月から再び上昇し、先週の外来では135でした。
今月の上旬には、エコー・CT・MRIの検査をしましたが、まだ腫瘍らしきものは何もありませんでした。
今後は月1ペースで画像検査をしていきます。
今は何もしてあげる事が出来なくて、はがゆい思いでもありますが、必ず摘出できる所にある事を信じて、前向きに考えたいと思っています。
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☆'03 10/19
三重
クリーム
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はじめまして。
先日7歳になった娘が、4年前に肝芽種と診断され、7ヶ月の入院生活を送りました。
あとから考えると、抱っこをせがんだり、朝起きて不機嫌だったり、突然泣いたりと、おかしな様子はたくさんあったけれど、ただの甘え、わがままだと思っていました。おなかが痛いと大泣きしたことが2回あったので、軽い気持ちでかかりつけの小児科を受診したら、すぐに大きな病院を紹介され、即入院でした。
AFP180万、かなりむずかしい、と言われました。
それでも5回の治療で腫瘍が思った以上に小さくなり、もうすぐ手術をして退院かと喜んでいたら、大量の吐血。静脈瘤があることが分かり、手術が延期。さらに、門脈にある腫瘍らしきものががどうにもなくならず、これでは手術ができないと言われました。「自宅に帰って、楽しい思い出を作ってあげることも考えられるが・・。」とまでいわれ、呆然としました。
どうすればいいの、助けて・・・と思っていたところに、肝移植の話がきました。血管に腫瘍がある場合は、移植適用外だそうです。でも、小児であることと、化学治療でがんばってよくなってきたことから、大学病院の先生がやってみようといってくださいました。21時間の手術で、「思いのほかにきれいに腫瘍がとれましたよ。」といってもらいました。
今思っても、わずかに残された道を娘は本当にがんばって歩いてきたと感じます。
4年たちましたが、AFPは常に一桁、月一回の通院も、娘にとっては病院の先生のところへ遊びに行くかのような楽しい行事になっているようです。
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☆'03 10/6
宮崎
亮くんママ |
うちの子は未熟児(612g)で生まれ、11ヶ月大学病院の周産期母子センターに入院していました。
母子入院の為、小児科に移りたまたま撮影したレントゲンで見つかりました。
その時、腫瘍は右葉に約3cmの大きさでAFPは6500でした。
手術は拡大肝右葉切除・胆嚢切除でした。
術後も良好で、もともと慢性肺疾患を持っている為、抗癌剤治療は呼吸困難を招くリスクの方が高くなるとの判断で行いませんでした。
小児科には6ヶ月入院し、今年の6月にやっと退院できました。
いまは、月に一回の外来で様子を見ています。
未熟児で生まれ、未熟児特有の疾患をいくつも持ってるうえに 肝芽腫も持つことになり大変ですが 息子の生命力には改めてビックリします。
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☆'03 8/16
002 神奈川
こうちゃんママ |
もうすぐ一才というときにお腹のふくらみが気になって、1歳児検診を兼ねて小児科に言ったときに肝芽腫と診断されました。その日のうちに大きな病院に入院、翌日のお昼に現在の病院に転院しました。
転院してすぐにカテーテルを入れる手術と細胞の検査の手術をして、すぐに摘出できないので翌日から治療に入り、小さくしてから手術ということになりました。
入院時点で腫瘍が腹腔内破裂していたらしく、入院が一日遅れたらと思うとぞっとします。
入院時点でAFPは27000で、腫瘍の大きさの割にはAFPは低いとのことでした。
それから5コース終了後、腫瘍が縮小した事と、使っている抗ガン剤に抗体が出てきてしまったとのことで、手術になりました。
手術は16時間かかりました。そして肝臓内にあった腫瘍は全摘できました。
その後腫瘍マーカーは順調に下がったものの途中で減少が止まったので心配しましたが、肝臓の再生によるAFPだとわかり安心しました。その後正常値まで下がり、胆汁の漏れがなかなか止まらずに、ドレーンを付けたままでしたが、2コース治療をしました。
その後、胆管と空腸をつなぐ手術が必要になり、手術をしてドレーンも抜いて、入院してから1年2ヶ月で寛解退院になりました。
しかし、その6ヶ月後に再び腫瘍マーカーが上昇。再発とのことで再入院になり、前回と同じ治療を8コース、その後、自家骨髄移植を一回しました。
その間、2度ほど、腫瘍マーカーが正常値に下がったものの、結局また再上昇してしまい、現在、画像上ではなにも出てこないので退院してから8ヶ月ちょっとですが、週一回の外来の採血で様子を見ています。
現在のAFPは70〜150くらいをいったりきたりです。
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☆'03 7/6
静岡
しおん |
はじめまして、私は静岡県に住んでいる「しおん」といいます。
突然のメールで失礼します。
私は3年前に最愛の娘を「肝芽腫」で亡くしました。
当時どんな情報でもほしくてネット上でいろいろな相談をしましたが、同じ病気のご家族と話す機会がありませんでした。
3年が経った今、あの頃のことを思い出しメールをさせていただきました。
「肝芽腫」の会のホームページすごく詳しく載っていて素晴らしいです。
あの頃は「がんの子供を守る会」へメールして情報を集めていましたが、ここに来て皆さんとお話できればどんなに勇気づけられるかかりません。
突然のメールで本当に失礼しました。
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☆'03 6/25
東京都 No.018
ヒロのママ |
はじめまして。現在3才4ヶ月の男の子ヒロくんのママです。
ヒロは、去年の7月に発熱と食欲不振からかかりつけの病院に緊急入院して『肝芽腫』と診断されました。
その後、生検の手術と肝臓の2/3をとる拡大右葉切除術の手術と合計6クールの科学療法を経て、6ヶ月半の入院生活を1月に終えて、今無事自宅生活を穏やかに過ごしています。
このホームページを見つけて、嬉しさがこみあげて来ました。
病院での小児癌の親の会に入っていても、なかなか肝芽腫の病気を戦っているお友達はいなくて、寂しい思いをしていました。一緒の苦しみを分かち合えて、一緒にがんばっている同じ病気の子供がたくさん居ると知って勇気が出ました。
まだ、退院して5ヶ月です。AFPは退院から5〜6を毎回キープしています。毎回の血液検査やCT検査の結果をどきどきしながら通院しています。再発の恐怖や不安もあります。そんな時またこのホームページを見に来ますね!
では(^^)/”。
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☆'03 5/20
みつママ |
はじめまして。肝芽腫の治療を経験した5歳の娘を持つ母です。このHPを見つけて、とても嬉しかったです。ずっと、医師からの少ない情報しかない中で、泣いたり、怒ったりしながらの生活でした。
生後6ヶ月で肝芽腫が見つかり、肝の3/4を摘出。その後、化学療法と放射線。そして肝硬変。父親の肝臓を移植して、2年ちょっと過ぎます。
ただでさえ少ない肝芽腫の患者さんの中で、娘と同じ経過を辿った人に出会ったことはなく、いつもいつも、どうなってしまうんだろう・・・と思いながら、治療してきました。
今は、元気に保育所生活を送っていますが、年に何度か入院してますね。
日ごろは病気のことは忘れてしまうけど、肝移植後の再発・・・ということもあり得ると医師から説明されたこともあって、いろいろ心配は尽きません。
ときどき、ここに寄らせてくださいね。
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☆'03 5/14
千葉 |
こんにちは。始めまして 私の娘は、3歳一ヶ月の時に風邪かなっていう感じで何回か通院している間に肝芽腫と診断されました。
それは、平成3年の事です。
それから肝1/3摘出という手術を2回やりました。
その間に化学療法は、21クールという長い入院生活をへて今元気に部活も頑張っている受験生です。
今年10月で化学療法をやめて9年になります。
いろいろ検査は、重ねてきていますが普通の女の子です。
なにか参考になることがあればお話したいと思います。
仲間ってとっても心強いですよね
私たちにも(千葉の病院に)3人の仲間がいました。
でも残念ながら うちの子一人になってしまいました。
のぞみの会とも最近は、連絡途絶えてしまっていますが・・・・・
偶然目にしましたのでメールさせていただきました。
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☆'03 4/25
001 神奈川
そうちゃんママ |
K.Tさんへ
うちは幼稚園に入る時にすべて話しました。入園後も便箋6枚に経過を詳しく書いて先生方に回覧して読んでもらいました。傷については「小さい時に大変な手術で頑張った印だよ」とみんなに話してもらうよう頼みました。それと園児の親向けには小児ガンについての本を寄付し、そのときにA4の紙3枚くらいに詳しく書いたものを渡し、それを親向けの会報に掲載してもらいました。傷を負い目に感じてほしくないし、むしろ「これだけ頑張れる力を持っているんだ」と思ってほしいので、周りにもバンバン喋ってます。もちろん解ってくれる人は少ないですけどね。今は学校で毎日補聴器のこと聞かれているみたいです。
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☆'03 4/24
神奈川
Adviser Dr. T |
最近はインフォームドコンセントが厳しく言われている影響もあって、副作用について細かく言われることが多いと思います。あれを全部聞いていると、治療を受けるのが怖くなってしまうのではないかと心配です。
私自身はこの2年間に2回結構大きい手術を受けましたが、2回とも大した説明は受けませんでした。むこうもこちらは医者だ、かなりの事は知っているだろうと思っているのが良く解るし、こちらもあんまり変な事を聞くと、おまえ医者のくせにこんな事も知らないのかと馬鹿にされそうで聞きにくいです。こういう点医者って不利かもしれません。
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☆'03 4/24
神奈川
K.T |
こんにちは。
1000人目のアクセスです。
息子は幼稚園に行きはじめました。ひとつ、お悩み事(些細なことですが)みなさんは、回りの人達に、子供の病気のこと(着替えで裸になることが多く、特に手術のあと等)をどんなふうに話しているのでしょうか?
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☆'03 4/7
001 神奈川
そうちゃんママ |
今日は息子の小学校の入学式でした。
4年前の今頃、発症して桜の舞う中を抱っこして病院に向かったことはまだはっきり覚えています。今日の息子は一人でちゃんと歩いて学校へ向かいました。飛び跳ねながら歩くその後姿を見ながら、まだ安心は出来ないけれど、お医者さんたちを初めたくさんの人たちのおかげで大きくなれたんだなあとしみじみ感謝の1日でした。
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☆'03 3/31
神奈川
Adviser Dr. T
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Why Meをご存知でしょうか? 悪性腫瘍になった人が経過中に何度も心の中でつぶやく言葉として知られています。
なぜ自分がこんな病気にならなければならないんだ?
なぜ他人ではなく自分なんだ?
なぜこんなに治療で苦しまなければならないんだ?
なぜ治療を受けているのに再発したんだ?
等々その時々で色々な意味が込められている言葉です。多分診断が告げられた時に最も強く感じられる言葉だと思います。
ここで発言している方々にはWhy My Child あるいは Why My Family でしょうか。
Why Me という問いに対して満足の行くように答えるのは難しいのです、大きな原因はまだまだ医学が発展途上で悪性腫瘍が発生するメカニズム、治療に耐性になるメカニズムが解っていないことでしょう。
また Why Me には悲しみや怒りなど色々な感情が伴います。それらの感情を自分の中に閉じ込めると自殺願望のようなものも出るかもしれません。また家族や医療関係者への怒りの形で現れることも経験されます。
こういう感情に対して医療関係者がどのように関われるか考えます。今現在全く結論はでていないですし、将来的にも出るかどうか解りませんが。 |
☆'03 3/19
001 神奈川
そうちゃんママ |
うちの子の治療経過を書いてみました。
息子が発症したのは2才3ヶ月の時。発症して1日半後に神奈川県立こども医療センターに転院となり、その翌々日の昼前には手術室に入っていました。拡大肝右葉切除術。IVH挿入術。骨髄検査。ステージはVAでしたが、腫瘍の破裂が確実だったため手術を先行させたのだと思います。
術後は順調で12日後から化学療法が始まりました。当時はまだJPLT−1プロトコールだったので、「91B2」と言うのを6コースの予定で開始しましたが、破裂があったことと肝臓の血管の中に腫瘍塞栓(腫瘍で血管がつまっていること)があったせいか、術後すぐの頃のAFPは半減期が4.7日とあまりよくありませんでした。けれど後の状況からすればまだ順調に下がっている頃でした。
AFPは当初3万9000でしたが、100を切った頃からあきらかに半減期が長くなり、20前後で完全に停滞してしまいました。毎回化学療法後に20いくつに上がり、次の化学療法直前に14とか15という感じで5コースまで終わってしまい、いくらか動いたのは6コース目。やっとAFPのMAXが20ちょうどくらいになりましたが、やはりまだまだということで6コース目終了後さらにITECを6コースやることになりました。
ITECになってから、ようやくAFPが下がり始めました。ただITECは91B2(今のCITA)より骨髄抑制が強く、輸血の回数は増えましたが、「G−CSFは二次ガンがまれに起こるので極力使わないようにしましょう」ということで使いませんでした。まあ息子も骨髄抑制中に高熱を出すことが少なかったからだと思います。
やっとAFPが10を切ったのは、なんと10コース目でした。
そこへ至るまでのAFPの半減期を計算すると何十日どころか百何十日というすごい日数になります。ただこの頃になって今更という感じで聴力が落ちてきました。でも当時は「命が助かれば耳は仕方ない」と思っていましたし、今でもそういう気持ちはどこかに残っています。
化学療法中はファンギゾン(オレンジのドロッとした薬)とバクトラミンをずっと飲んでいましたが、息子は特にファンギゾンがだめで、外泊時は最後まで馬乗りになって泣き喚くのを鼻をつまんで飲ませなければなりませんでした。仕方ないと思いつつも可愛そうで「もっと味をなんとかしてくれ!!」と製薬会社に言いたかったです。味見をしましたが、あれはまずいです。
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☆'03 3/2
006 愛媛
タムタム |
こんにちわ、bO06です。「うちの子の場合」を書いてみました。
次回の検査結果次第ではまた抗がん剤かなぁ。。。と気が重い春です __(_ _;) ウゥ
うちの子の場合、生後4ヶ月で発症しました。(現在1歳6ヶ月の男です。)
NICUに入院中の生後4ヶ月のころに、強度貧血ショックとなり、検査の結果、肝芽腫破裂と診断されました。その時点でAFPが80万と、先生が言っていたように思います。その時は、その値がどのくらい悪いのか分かりませんでしたが。。。
すでに破裂して腹腔内で出血していたので、緊急手術を行いました。
運良く肝臓の外側に腫瘍ができていたので肝臓の切除はなく、腫瘍だけを全摘できました。腫瘍は重さ302グラム、10cm×15cmの大きさがありました。
腫瘍は全摘しましたが、手術後再発防止のため化学療法を行いました。
抗がん剤はシスプラチンとテラルビシンを、4クール行いました。
ただ生後6ヶ月もたたない赤ちゃんだったので、1クールの量は規定の半分の量でした。
4クール終了後AFPは1500まで下がりましたが、その後上昇してCTで腫瘍が確認できました。
再発ということで、再手術を行いました。再手術前はAFPが9000でした。
腫瘍は全摘でき、AFPも下がっているので、そのまま経過をみることになりました。
副作用といえるかどうか分かりませんが、IVHを入れたところからMRSAに感染して、発熱がありました。赤ちゃんだっとこともあってか、かなり汗をかき、IVHの下から膿がでて、毎回IVHを入れ替えなくてはなりませんでした。、血管も細く、何度も入れ替えたこともあって、入りづらく、再手術の時は結局肩下からは入らず、ふとももからIVHをいれました。
毎回全身麻酔をして、IVHを入れることが、かなり負担で心配でした。
現在、再手術後、7ヶ月経過しています。
今は退院して月に1度、血液検査と、エコーをしています。
正常値からはほど遠いのですが、現在のAFPは300前後をいったりきたりです。
次回の血液検査で上昇しているようならCTを撮ってみることになっています。
下記の記事にもあるようなことを、主治医に言われました。
それにしても生後4ヶ月は早すぎるから、もともと癌化していたんだろうとのことでしたが。。。
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☆'03 3/1
005 熊本
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うちの子は1才9ヶ月で発症しました。
風邪かな?と思って連れて行った近所の小児科で「おなかが固い」と触診で言われ、
肝臓にガンがあることがわかりました。
即入院してプロトコールに従い、シスプラチン・アドリアマイシンでの化学療法を開始しました。
2コース後、23万あったAFPが7万に下がりました。
が、その間に造血幹細胞移植に備えて自分の幹細胞を採取したので、治療が2週間開き、その間にAFPは12万に笛、ITECでの3コース目終了後も数値は下がらずAFP12万でオペになりました。
オペは成功、眼に見えるガンは全部取れ、術後も肝機能障害は出たもののAFP5.8まで下がり、化学療法3コース後退院できました。入院期間9ヶ月でした。
しかし退院後AFPは少しずつ上昇し、4ヵ月後には80までになり再発となりました。
再入院し、当初の計画では造血幹細胞移植を2回行うことになっていましたが、画像検査で肺に転移が見つかり、即オペになりました。
肺の腫瘍は全部取れ、AFPは1週間後には38まで下がり、半減期は3.8日と予後はまあよいほうに属しているという結果でした。
その後、転移をこれ以上増やさないよう化学療法1回と自家移植1回を行う予定になっています。
「出来ることはなんでもする、後で後悔しないためにも」いつしかこのことが家族間でも共通の考え方になりました。
これからも変わらぬ気持ちでがんばっていくつもりです。
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☆'03 2/27
愛媛 タムタム
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はじめまして。まちゃままさんのHPで肝芽腫の会のことを知りました。
本当にこの病気に関しての情報が少なく、「肝芽腫の会」ができたこと、とてもうれしく思っています。地方ですので、会合には出席できませんが、いろいろ情報を交換できれば心強いです。
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