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Dr.Tは肝芽腫の会設立時に小児がん専門医としてアドバイザーを引き受けて下さっていた医師です。
本名は「豊田恭徳(とよだやすのり)」。神奈川県立こども医療センター腫瘍科部長でした。
2001年に自らも大腸がんに罹り、会の設立当時はすでに再発の手術を終えて化学療法中でしたが、協力を快く引き受けてくださり、勤務も休むことなく小児がんの子どもたちを診続け、会にも積極的に参加して私たちを支えてくださいました。

診察で会話する以外に医師が何を考えどう感じているのかを私たちは知る機会がほとんどありません。
もちろん医師と言えども考え方感じ方は千差万別ですからすべてを知るというのは不可能ですが、長年小児がんの子供たちを診てきた医師の一人として、また医師を離れた個人としてDr.Tにその想いをつづってもらいました

残念ながらDr.Tは2004年4月20日に旅立たれました。
昨今は「医師の質」を問われる問題が多かったり、また腕がよくても「ドクハラ」などという論外な医師の話も聞いたりしますが、一方では、小児がんの子どもに限らず「人」を治すために一生懸命頑張っているこういう医師がいたこと、また現在もそういった医師たちが大勢頑張ってくれていることを忘れてはなりません。

よりよい医療と言うものは医療者側からの一方通行ではなく、患者や家族からのフィードバックによって高められるということが言われてきています。肝芽腫のように発症率の低い病気の場合は特に必要なことだと思います。Dr.Tは旅立たれましたが、後を引き継いで下さっている協力医とともにこれからも肝芽腫の子を持つ親のサポートを自分自身も含めてお互いに助けたり助けられたりしながら続けていきたいと思います。  (2008.1更新  創立メンバー 神原結花)
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1.
Help
2003.8.4
投稿編(うちの子の場合)

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2.
登校拒否
2003.8.25
3.
2度目の入院
2003.9.10
4.
宮沢賢治
2003.10.5
5.
宮沢賢治、もう1回
2003.11.9
6.
やっかいな荷物
2003.11.27
7.
手術まで
2003.12.23
8.
術 後
2004.1.12



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  1.Help 
2003.8.4
最近またビートルズに凝っています。またと言うからには以前も熱中していた時期があった訳で、1回目は実際にビートルズか活動をしていた頃、自分の年齢で言えば小学校の高学年から高校の終りぐらいでしょうか。映画「ヘルプ」が公開され、中学2年の時に武道館での日本公演があり、高校3年の時解散でした。もう1回は医者になって10年以上経ったころ、アルバムがようやくCD化されてそれを次々に買っては聞いていました。

今回のきっかけは4月に売り出された「ビートルズアンソロジー」のDVDを買った事です。ビートルズアンソロジーは何年か前の大みそか、夕方から夜中にかけて一挙にテレビで放送された事があります。私はその日の日中に患者さんが亡くなり、そのまま家に帰らず病院でずっとテレビを見ていました。 患者さんが亡くなった後の医者の気持ちと言うのは多分人様々で、一口で言うことは無理だと思います。私は、目の前で一人の人がこの世を去ったと言う非日常的な出来事から、なかなか普段の日常生活に戻って行くことができず、つまり患者さんが亡くなった後、すぐに家に帰って家族と会話をしたり食事をしたりする気になれないのです。結局そういう日は、一人で飲みに行って色々考えて悪酔いし、病院に泊まってしまう事が多かったですが・・・。

閑話休題。DVDを見て改めて彼らの音楽性の高さを認識しました。素晴らしい曲ばかりなのですが、今は「ヘルプ」が一番だと思っています。この曲について「季節が夏から秋へと移ろって行くような雰囲気を持っている」と評した人がいますが、言い得て妙だと思います。

僕が今よりずっと若かった時
誰からも、どんな助けもいらなかった
けれど、それはもう過ぎ去った日々の事
今は、自分に自信が持てないんだ
気分が落ち込んだ時は助けて欲しい
傍にいてくれるだけで有り難い

Won’t you please please help me
助けて、だれか助けて
(Helpより)

ジョン・レノンはこう言っています。
「ヘルプの頃、僕は本当に誰かに助けて欲しくて必死に歌っていた。けれど誰もそれに気付いてくれなかった」

心から叫んでも、訴えても、なかなか他人には分かってもらえないのかもしれません。
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  2.登校拒否  2003.8.25

小学校3年の3学期に一時登校拒否になった事が有ります。原因は席替えで新しく隣に座った同級生と担任の教師です。

それまでは比較的仲良くしていたのに、席が隣になった途端こちらがやってもいない事を色々教師に言いつけるようになり、それを聞いた教師は私の言い分に全く耳を貸さず一方的にこちらを叱るのです。

何回か続いた後、朝起きると腹痛が有ります。これは学校に行きたくなくて痛くも無いのに痛いと言っている訳ではなく、本当にお腹が痛いと本人は感じているのです。ただ母親が学校へ行かなくて良いと言えばすぐ腹痛は収まります。

そんなことを何回か繰り返しているうちに、本当に病気になってしまいました。虫垂炎です。1週間入院しました。これが私の生涯最初の入院です。

入院したのは近所にあった内科の開業医なのですが、手術室があり院長の親戚の外科医が来て手術をすると言う不思議な病院でした。今から思えば不思議な事は他に有りました、7.8歳のこどもの手術なのに全身麻酔ではなく腰椎麻酔だった事、虫垂炎と同時に以前からあった鼠径ヘルニア(脱腸)の手術を同時にやってしまった事などです。

登校拒否であった事を親も良く分かっていたらしく、学校へ行かなくても良い理由を付けるためでしょう、退院後も術後の経過が思わしくないと言って2週間以上休ませてもらいました。その内に学年が変わり、組替えし担任も変わり、その後は元気に学校へ通うようになりました。

登校拒否の大きな原因となった教師と、社会人になってから会う機会がありました。友人の結婚式に来賓として出席していたのです。友人は小学校4年ぐらいの時にその教師が担任で大変可愛がられたのだそうです。多分、好き嫌いの激しい依怙贔屓をする人間だったのでしょう。よっぽど目の前に行って「あなたのおかげで私は登校拒否児になった、今でも恨んでいる」と言おうかと思いましたが、おめでたい席でしたので、さすがに控えました。

私はかなり執念深い人間なのかも知れません。

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  3.2度目の入院  2003.9.10

2回目の入院は1回目の30年以上後で前厄の年、つまり41歳の時でした。
原因は尿管結石です。入院になる日の明け方に右の側腹部痛で目が覚めました。それほど強い痛みではなく、排便でもすればよくなるかなと何回かトイレに行きましたが排便は無く、その内痛みも消え普通に病院へと出勤しました。

病院についてから本格的な痛みが始まりました。尿管結石を経験された方はいらっしゃるでしょうか? 痛みのひどさは心筋梗塞、急性膵炎と並んで三大疼痛の一つに数えられているほどです。とにかくどんな体位をとっても痛い。胃腸炎などの痛みだと左側を下にすれば痛みが和らぐなどといった事があるのですが、その痛みはそれが一切ない。右を向いても痛い、左を向いても痛い、上を向いても下を向いても痛みは変わらない、座ろうが立とうがどうしようもない。

点滴をしてもらって外科のドクターの診察も受けましたが原因はわからず、最終的にはN病院という、最も近い地域の基幹病院へ入院することになりました。待っている間にソセゴン(ペンタゾシン*鎮痛剤)を静注してもらいましたが痛みは和らぎませんでした。

今から思えば病院へ行く途中で石が落ちたのでしょう。N病院へ向かう救急車に乗っている間に痛みはすっかり治まりました。病院では腹部のエコーなどをやってようやく診断がつきました。また、尿酸値が高いので再度結石を起こす恐れがあるので気をつける様にも言われました。

入院したのは1泊2日です。個室しか空いてなかったので、そこにはいりました。もちろん差額ベッド代をとられます。会計するとき始めて知ったのですが(それまで差額ベッド代をとるような病院に勤めた経験が無かったので知らなかったのです)、差額ベッド代というのはホテルのように1泊2日いくらではなくて、1日いくらなんですね。ですから入院した日の昼過ぎに病室へ行き、翌日の昼前に退院したのにしっかりと2日分とられました。

医療関係者が言うのも変かもしれませんが、これって変ですよね。私が退院した後にも誰かが入院すれば、その人からも1日分のベッド代をとるわけだし、それに法律では病院の都合で差額ベッドに入った時には、料金は取られないのが決まりではなかったでしょうか?

まあ二度と入院はしたくないし、特にあの痛みをまた経験するのは絶対いやだと思い、退院した後は食事も酒も気をつけて体重もずいぶん減らしたのですが、1年も経つと元に戻ってしまいました。尿管結石はその後も何回か経験しています。最初は右だったのか最近は左に移りました。

二度と入院したくないという望みも、それから10年も経たないうちに思いがけず2回も長期の入院をする破目になってしまいました。

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  4.宮沢賢治  2003.10.5

先日当院で治療を受けている血液/腫瘍性疾患の患者さんの親の会代表の方から、会員誌に載せるということでインタビューを受けました。中で一番心に残る本を1冊揚げてくれという質問があり、宮沢賢治の「春と修羅」と答えましたが、インタビューに来ているお二人にこの本の題名も聞いたことも無いと言われ、一寸吃驚しました。宮沢賢治の詩は童話ほど有名ではないのでしょうか?

私も宮沢賢治に親しんだのは童話が最初でした。母親が読んでくれた「なめとこ山の熊」、「セロ弾きのゴーシュ」、「貝の火」の三篇だったと思います。このなかで「貝の火」は余り好きになれませんでした。主人公の罪に対する両側の失明という罰があまりにも過酷だと感じていた様に思います。

自分で読むようになったのは小学校の3年か4年の時で、、当時良く出ていた「日本小児文学全集」といった中で「宮沢賢治集」を買ってきて「オツベルと象」、「夜鷹の星」、「注文の多い料理店」、「狼森、笊森、盗森」、「どんぐりと山猫」、「グスコーブドリの伝記」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」などをむさぼるように読みました。

話題がずれますがテレビで「風の又三郎」の映画を見たのと、本で読んだのとどちらが先か良く覚えていません。けれど又三郎の歌のメロディーはいまも良く覚えています。テレビで観た童話の映画といえば、これより前に「ノンちゃん雲に乗る」を見ています。今でも時々飛行機に乗ると雲の上にノンちゃんたちがいないかなと目を凝らします。

小学生の時好きだったのは「注文の多い料理店」と「グスクーブドリの伝記」でした。特に後者の自分を犠牲にしても他人をできるだけ助けるという考えは、小学生には逆らいたいような魅力がありました。

詩を初めて読んだのは中学生の時です。図書館から「宮沢賢治詩集」を借りて1週間読んでいましたが全く歯が立ちませんでした。何となく言葉の使い方の新鮮さは感じました。本格的に親しみ出したのは大学生になってからです。その後ずっと折りにつけ詩集に眼を通しています。

春と修羅は第1集から第3集に別れていますし、それぞれで詩の持つ雰囲気はかなり異なっています。私は1集から3集全て合わせた中で「青森挽歌」が一番好きです。これは賢治が妹のとしを結核で亡くした後、北海道/樺太まで旅をした間に読まれた詩の一つです。好きだといいましたが、長いし非常に分かり難い詩です。けれど「青森挽歌」の言葉の連なりはなんとも言えない魅力があります。私だけの思い込みかもしれませんが。

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  5.宮沢賢治、もう1回  2003.11.9

宮沢賢治は童話や詩を書いてばかりいたのではありません。芸術の普及、農業の改良事業等に精力的に活動しました。しかしその活動に対する現在での評価は否定的なものが多いようです。

井上ひさしは戯曲「イーハトーブの劇列車」のなかで、登場人物の一人にこういわせています。もちろんその人とはこの戯曲の主人公宮沢賢治のことです。

「つまりですな、この世は殺し合いの世界でありまして - 修羅の世界です。その人は、修羅の世界からどうやって脱け出そうか、とそればかり考えていたんですな。そしてたどりついたのは『ほかの人のために徹底的に自分の命をささげる』という考え方です。しかし、その人はもう十分にそれをやり抜いたんですよ。その人なりにね。全部失敗したようなものだけど - 。」

宮沢賢治の活動とそれが崩れていく様子は「春と修羅第三集」の中の「稲作挿話」「和風は河谷いっぱいに吹く」「時計が二時も暗いのは」「野の師夫」「もう働くな」「何をやっても間に合わない」等によく現れています。それにしても自分の命を捧げて他人のためにつくした結果を、全部失敗したと評価されるとは、あまりにも悲しいことです。

宮沢賢治は30代で結核で亡くなります。病の床で書いた詩の中に「目にて言ふ」という恐ろしい詩があります。少し長くなりますが下に引用してみます。

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いているですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうもまもなく死にそうです
けれどもなんといういい風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くように
きれいな風が来るのですな
もみじの嫩芽と毛のような花に
秋草のような波をたてて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あててもしていただければ
これで死んでもまづは文句もありません
血がでているにかかわらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
ただどうにも血のために
それを云へないのがひどいです
あなたの方からみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです
人間全てを諦めるとこれだけ澄んだ心境になれるのでしょうか?
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  6.やっかいな荷物 
2003.11.27
 軽くはならぬ荷物なら
 重い軽いが何であろう
 (風と共に去りぬ)

私が直腸ガンというやっかいな荷物を背負い込んだのは2年前2001年の夏のことでした。
初発症状は便に血が混じったことですが、後から思ってみれば血便がでるしばらく前から便が細くなっていました。その2つを考え合わせると自ずから答えは出てきます。大腸のガン、それが答えです。

とにかく検査を受けることにしました。割と近くに大学でそちらの方を専門にやっていて開業した外科の医者がいましたので受診しました。土曜日の午前中病院に行き、簡単な問診の後すぐ直腸診になりました。終わった後医師は簡単な口調で、ちょうど指で触れるぐらいの所に腫瘍があるねと告げました。私の場合これが世に言うガンの告知というわけです。まあ最初からこちらが医者であることは告げてあったので、向こうもある程度気楽に言ったのかもしれませんが、小説やテレビでよく見るような深刻さは全くありませんでした。こちらもそれを予測していったのですから、やっぱりそうかという感じで聞いていました。

翌週の火曜日の午後に大腸の造影検査を受けることに決めて家へ帰りました。大腸の検査を受けたことのある方はご存じかもしれませんが、検査前に大腸を徹底的にきれいにするために、前日に食事の制限とともに大量の下剤を飲まなくてはなりません。火曜日の午前中は外来があります。自宅から病院までは1時間ほどかかります。前の日に下剤を飲んで病院へ行く途中でトイレに何回も行きたくなったら大変です。結局病院に泊まることにしました。夜何度もトイレに駆け込み、寝不足のまま翌日の午前中の外来をやっていました。

検査の当日は夏休みに入ったばかりで外来の予約がたくさん入っていて、12時すぎてようやく終わる事ができました。

急いで病院へ行きました。確かその日はその夏一番気温が上がった日だったと思います。しばらく待っただけで検査は終わり、結果はすぐに告げられました。肛門から数センチの所に、直径5−6cmの腫瘍があるとのことでした。

手術を受ける病院は私の勤めている病院の院長(検査をした病院の医師と同じ大学の後輩になります)と相談して決めると言うことで、その日は帰ってきました。帰り道、空腹とのどの渇きがひどく、家にたどり着いたとたん、チーズをつまみながらビールを飲んだことを覚えています(とんでもない酒飲みですね)。

ショックと恐怖感が襲ってきたのはそれから2−3日たってからです。
手術を受ける病院が決まって実際に入院するまで10日もなかったと思うのですが、その間は結構動揺しながら仕事をしていました。
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  7.手術まで  2003.12.23

手術前後日記をつけていたので差し障りのあるところは削って載せてみたいと思います。今から読み返して見ると、いろいろ思い出して懐かしいです。

7/23
明日の透視のため、検査食を開始する。思ったより空腹感は無い。それよりも明日の下痢のほうが心配。
N院長に手術をする場合の病院について相談する。出血で見つかるのは大事に成ることは少ないとの言葉に少し安心する。

○大腸の検査をしたことのある人はご存じだと思いますが、前日から食事の制限とともに大量の下剤を飲まなければなりません。自宅でこれをやると病院までの通勤の間に頻回にトイレに行かなければならなくなって大変ですので、検査前日は病院に泊まりました。

7/24
0時より緩下剤による水様便、1時間毎、寝不足のまま午前中外来。終了後この夏一番の猛暑の中を病院に向う。
注腸では直腸の後壁三分の一周ぐらいに陰影欠損あり、見込みとしては前方切除で行けそうとのこと。30日に内視鏡で生検予定。
帰りに焼き鳥、握り飯等を買い込み、ビールを飲む、やはり普通の食事は良い。

7/25
午前中外来。新患1を含む22、午後2時まで。新患の神経芽腫に入院を勧めたところ、母親が付き添いのできる病院への入院を希望したため、種々の病院に問い合わせを行う。これで1時間は余計にかかったと思う。
午後3時過ぎから暴風雨、院内停電し大混乱、危機に脆い病院である。
帰宅時停電による東海道線のダイヤの乱れと、江ノ島での花火大会への人出が重なり大船駅で立ち往生。

7/26
昨晩は夜半まで暑さが続き寝不足気味。午前中は半分眠りながら前日の内科科長会の議事録を書く。午後は回診とtumor board (*小児科・外科・放射線科・病理科等の関係各科が集まり固形腫瘍の治療方針を決定する会議) 。
血液腫瘍グループ全員に直腸に腫瘍があり、近いうちに手術のため入院することを伝える。

7/27
入院病院を決める。月曜日に取り敢えず受診、週末には入院の予定。

7/28
午後聖路加国際病院でJapan Pediatric Lymphoma Study Group (*日本小児悪性リンパ腫研究グループ)の会議、なかなか纏まらず。最後になってTCCSG (*東京小児癌研究グループ)がT protocol を、CCLSG (*小児癌白血病研究グループ)がB protocol を考えることで同意。次回8月19日名古屋で、事情を話しT先生に今後をお願いする。話し合いの途中、統一プロトコールが走り出すころ自分は生きているだろうかという考えに突然襲われる。

○この前の年から小児の悪性リンパ腫治療プロトコールを全国統一しようと頤右話し合いが進んでおり、この日その話し合いが行われました。統一プロトコールは来年春には開始できそうです。

7/29
午後参議院議員選挙、床屋。気分はやや動揺が収まったか。

7/30
8月1日の入院が決まる。2日には内視鏡的生検、手術日は未定。
ロスの後藤から神経芽腫の分化誘導の新しい薬剤について共同研究の誘いあり。ただ現状では未認可薬の使用は厳しいか。速く病を退治して現役でやりたいものだ。

7/31
午前中外来17人、12時まで。
午後CT、エコー、転移はなさそう。大体知らせなければいけないところに全部通知を終わった。
夕方脳外科に小脳腫瘍、整形外科に上腕骨の腫瘍入院。

8/1
9時半入院する。退屈。このところの疲れか熟睡する。

8/2
大腸ファイバー、朝から下剤を大ジョッキ2杯分飲む。開始が予定より2時間遅れる。看護師に病院の中には別の時間が流れているといわれ納得する。
ファイバーがなかなか進行せず、結局横行結腸どまり。腫瘍の生検を行い終了、その後外泊。

○「病院の中には別の時間が流れている」という言葉には同感する患者さんが多いのではないでしょうか。

8/3
終日自宅で「神経芽腫の経過観察」についての依頼原稿を書く。少し足り無い資料があり、あす病院でカルテを調べることにする。

8/4
資料を取りに病院へ。病棟を回ってきたが入院を知っていたのは2東のみ。
『上善如水』を買って帰る。かっては上手い酒だと思ったが、今飲むとこくもうまみも無く本当に水だ。

8/5
『小児外科』の原稿完成、ほっとする。
午後は「亡き王子のためのハバーナ」を読んで過ごす。今日から1ヶ月は禁酒を余儀なくされと思うと寂しい。

○「亡き王子のためのハバーナ」というのは、革命前のキューバを舞台にし、主人公の女性遍歴がひたすら書かれている小説です。題名はもちろんラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」のパロディです。

8/6
外泊終わり帰院、術前の注意いろいろ。病状手術の詳しい話は明日、家族と。24時間クレアチニンクリアランスのための蓄尿開始。「亡き王子のためのハバーナ」読み進む。

8/7
麻酔科受診および術前説明。術後は蒟蒻、しらたきは禁忌といわれる。鍋物やおでんが寂しくなりそう。交感神経温存ということで少し安心、あとは運任せだ。 (*交感神経を切られると、排尿、排便、勃起、射精等の機能が障害されるからです
「亡き王子のためのハバーナ」かなり進む。手術までに読了できそう。

8/8
朝から低残渣食、10時過ぎ剃毛。
「亡き王子のためのハバーナ」読了、「日の名残」読み始める。
夕方空腹感強い、一鳥の焼き鳥と日本酒が目に浮かぶ。

○一鳥というのは上大岡の焼鳥屋です。主人がサザンオールスターズのファンで、店ではずっとサザンの曲がかかっています。

8/9
この後も世界はこれまでと同じように自分の目に映るのだろうか。

○手術の前日です。随分深刻になっていますが、今から振り返ればこの手術など、その後延々と続く闘病生活のほんの前菜に過ぎなかったと思います。
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  8.術  後  2004.1.12

日記の続きです

8月10日
点滴をさすところ迄記憶あり。意識が戻ったときは抜管の最中。術後はICUへ。主治医から何か話されたが殆んど聞いていられない。一晩バイタルチェック等で不眠。

8月11日
朝病棟に帰る、全身倦怠強く四肢を動かすのも面倒。
腫瘍は6cmぐらい、脂肪が多く手術時間がかかったとか(5時間半)。

8月12日
早期離床を図るとかで、夕方洗面所で歯を洗う。腹部の疼痛より、幻暈がひどい。何とか倒れないで終わる。

8月13日
ガス出る。朝から時々胸焼け、胃チューブより黒色の液が出ている、ストレス潰瘍からの出血だろうか。午後には少しづつ薄くなる、改善傾向か。日中膀胱カテテール抜去。たって歩くのにも大分なれた。TVを見始める。

○もちろんこの日あたりまでは、後から思い出し書いたものです。

8月14日
トイレに歩いてゆけるようになった。
朝胃チューブ抜去、その後気分不快が著しく改善、チューブの刺激による症状だったか。夕方から流動食始まる、あまり食欲は出ない。
夜から尿の出が悪いか残尿感あり。

8月16日
昼より3分粥、1回排便あり、排便というより漏れか。今後の排便機能が心配。排尿は変わらず。
夜の抗生剤、他の患者さんのものと取り違えて点滴される。

○この後排便に関する記述がいろいろ出てきますが、直腸という便をためておく場所を取ってしまったため、便意を覚えると我慢をするのが難しくなっているのです。場合によっては漏らしてしまうようなこともあります。

8月17日
朝婦長が昨晩の点滴取り違いについて謝罪にくる。
半抜糸、痛み全くなし。排便2回。

8月18日
全抜糸、順調に進んでいるが、排便のコントロールは上手くいかない。そのためのストレスか、昨晩の不眠のせいかやる気が出ない。今日は全く頑張らないようにする。
春の祭典読了、読んで損した。

○春の祭典とはキューバ革命を舞台にした小説です。期待していたのですが、長いばかりでちっとも面白くなかったです。

8月19日

朝より排便あり、有形軟便。
自由の王読み始める、春の祭典より面白そう。
インターネットで小児血液学会の往復の新幹線、ホテルを予約。便利なものだ。

○9月の末に小倉で小児血液学会があり、演題も申し込んでいたので出席のための準備をしています。

8月20日
IVH抜去、夕方シャワー。排便良好。
次回の採血で貧血が改善傾向にあれば、(現在Hb 11.4)退院可能と主治医より。

8月22日
下痢気味、排便5回、夕より全粥。退院許可出る、24日退院とする。

8月23日
2階から6階まで階段をあがってみる、心臓がハカハカする。

8月24日
退院、桜ヶ丘までタクシー、小田急で藤沢まで、自宅までタクシー。

8月25日
夕方藤沢まで行ってみる。途中で幻暈がしてきた、体力の低下は否めない。
体力増強を図らなければ3日復帰が難しい。

○9月3日の月曜日には仕事を始めると決めています。

8月26日
1時間ほど買い物、階段を使わなかったせいか疲労はそれほどではない。
この後も毎日少しずつ行動範囲を広げ、予定通り9月3日には仕事を始めています。

9月6日
退院後初めての外来。組織の結果を知らされる。
直腸に接したリンパ節に1個転移あり、病期としてはIIIa、5年生存率は70-75%とのこと。抗がん剤を1年間飲むように言われる。かなりショック。

○成人の進行した癌で5年生存率70%以上は低くない、むしろ高い数字だと頭では解っているのですが、5年先自分がこの世からいなくなる確率が1/4以上あると言うことは気分の良いものではありません。できれば75%より80%と言って欲しい、80%よりは90%の方だったらどんなに良いかというのが本音です。
退院する時は半年位おとなしく生活していようと思っていたのですが、この結果を聞いたとたん、これは酒でも飲まなければ精神的なバランスがとれないなと思いビールを飲み始めました。
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