肝芽腫テーマ別みんなの体験談 home
  入院中のこと・治療のこと 


 発症した時のこと back

★発症した時のこと★ ☆ 2003.9.22 神奈川 No.017 いっちゃんママ


息子が発症したのは、約1年前の2歳3ケ月の時でした。

今から思えば、発症する2ケ月くらい前から、食欲がなくなったり、外では歩かなくなったり、ぐずって甘える事も多かったり、色々なサインを出していたのですが、元々超甘えん坊のママっこで、ちょうど魔の2歳児といわれる時期だったので、そういう時期なのかと、しばらくの辛抱なんて思っていた所、(またそういう時に限って、風邪などもひく事がなかったのです)近くに住んでいる主人の御両親は、そういう息子の様子が気になっていたらしく、「何でもないに越した事はないから、一度病院で見てもらったら」とすすめてくれました。

かかりつけの病院で見てもらった所、おなかのかたいのと簡単なエコー検査で先生は恐らく腫瘍である事は分かったらしいのですが、その時は、「子供の臓器にしては大きいのが気になる」と言う話だけで、検査出来る病院を紹介してくれました。

次に行った病院で、血液検査とレントゲンとCTをとり、悪性の腫瘍がある事が分かりました。
(実は最初の病院で書いていただいた紹介状の封が開いていたのでいいのか悪いのか、思わず見てしまい、「腹部腫瘍?」と書いてあったので半分は覚悟しつつも、間違えであってほしいと言う気持ちが強かったのですが・・・)
そして、この病院には小児外科がないという事で、その日のうちに大学病院に転院されました。
その日から、また出来る限りの検査を行い、翌々日に、「生検」を行なって、「肝芽腫」と診断されました。

入院当初、AFPが945000もあり、ステージ3で、腫瘍から出血もしていたので貧血もかなりすすんでいました。転移してなかったのが不幸中の幸いという感じで、このタイミングの入院が最後のチャンスだったような気がします。
一番近くで毎日見ている母親がもっと早く気づいてあげられなかったのが本当に申し訳けない気持ちです。
主人のご両親に本当に感謝しています。



★発症した時のこと★ ☆ 2003.3.24 愛媛 No.006 タムタム


肝芽腫が分かったのは、生後4ヶ月の頃です。

未熟児で生まれすぐにNICUに入りました。低血糖がひどく、それが収まった頃に今度は、チアノーゼが頻繁にでるようになり、内視鏡検査をしたところ気管軟化症とわかりました。
気管にチューブを入れ人工呼吸器をつけました。気管軟化症は成長してくればよくなってくるとのことでしたから、ただ時間がたつのをまっていました。

挿管した頃から、ミルクをかなり吐くようになりました。身体を動かすとチューブが気管を刺激して、せき込み吐く、この毎日でした。
医師も看護師も私も、吐くのは気管内チューブのせいだと思っていました。
今思うと吐いていたのはチューブの刺激と、腫瘍の発生があったんだろうと思います。

結局、腫瘍が破裂して、強度の貧血になるまで分かりませんでした。なぜ入院していて、それも24時間看護のNICUにいたのに、腫瘍が破裂するまで分からなかったのか・・・破裂していなければ予後も違っていただろうにと思うと、医師への不信感は拭い切れません。

10月に撮ったMRIでは何も無かったのが、3ヶ月後には重さ302グラム、10cm×15cmの腫瘍ができていました。
腹腔内出血でCTやMRI検査に行くにも、動かすだけで死ぬかもとしれないと言われ、1日かけて輸血をして、やっと検査に行きました。
検査の結果、小児外科の医師は「こんな状態で1日よくもった」「このままにしておくと死ぬ。でも手術も、出血が止まっていない状態で開腹すると血圧が一気に下がって死ぬことも大いにある」「手術するのは賭けです」と言われてしまいました。そのときのAFPは60万弱でした。


★発症した時のこと★ ☆ 2003.3.14 神奈川 No.003 


小学校に入学して良かったなあなんて思っていた4月後半になった頃からたびたび腹痛を訴えることがあり、神経質な私はよく近くの小児科に連れて行きましたが、「ちょっと風邪気味かなあ」という感じであまり気にしすぎないようにしようと思っていました。5月過ぎになると、「学校に行きたくない」と言って毎朝泣くので、「あんなに活発だったのにどうしたんだろう?」と不思議に思いましたが、主人は「ずる休みだ、甘やかすな」と気にしていませんでした。

何度も小児科に連れて行き、そのたびに「軽い風邪でしょう」と言われ、抗生物質を2週間ほど飲んでいたと思います。病院の待合室で長年鍼治療を受けているという見知らぬ年配の女性から「この子は消化器が悪いね」と首の下あたりを押しながら言われた時はすごく不快になりましたが、翌日そのことがとても気になり小児科へ行って医師に「風邪だけではないと思うので精密検査をしてほしい」と言いました。
結局血液検査のみでその結果は「コレステロール値が通常の2倍ある。しかし炎症反応もないし・・・」ということでした。

しかし何かが引っかかり、「家庭の医学」を引っ張り出して読んだところ、「神経芽細胞腫」というのがものすごく気になり、翌日再度検査を依頼しに行きました。
「今日は徹底的に検査をしましょう」ということになり、結局6時過ぎ頃までかかったと思います。「大したことありませんでしたよ」と言われるのを待っていましたが、夜8時過ぎてやっと呼ばれ、部屋に入るとたくさんの画像写真が貼ってあり、「肝臓に大きな腫瘍があります。ここの病院では無理です。マーカーも異常値で20万までしか測れません。きっとそれ以上でしょう。明日こども医療センターに転送します」と言われました。
真っ白になりました。
「先生、腫瘍と言っても悪性とは限らないでしょう?」と言うと、「はっきりしたことはまだですが、悪性でしょう」「それじゃあ余命は?」「おそらくこのままだと3ヶ月」

その後はどこをどうやって家に帰ってきたか分かりません。
結局こども医療センターで測ったAFP値は92万でした。


★発症した時のこと★ ☆ 2003.3.9 北海道 瑞輝ママ


うちの子が肝芽腫を発病したのがわかったのは、腹部が張っていた事でした。1歳の誕生日を目前に控えていて、親は『ようやく1歳だね!』などと考えてましたが、あまりにも腹部が張っていておかしかったので、普段からかかっている小児科に連れて行きました。少し前から鼻水と咳をしていて風邪の症状もあったので、診察が終わったら聞いてみよう!と思っていたら、『腹部がおかしい』という事になり、すぐさまレントゲンを取りに行きました。

あれよ、あれよと話が進んでいくたびに不安が押し寄せてきましたが、それを認めたくない自分もいました。
やっぱり肝臓にモヤがかかっているという事で、総合病院を紹介され入院準備もして旦那と向かって、CTを撮ったところかなり大きな腫瘍があり、うちでは対応できないから・・・と言われたった3時間ほどで退院手続きをして北海道唯一の小児病院に入院になりました。

次の日の採血でAFPは25万を超えていました。病名が確定したのは、入院してから数日後に行われた『開腹生検』で確定しました。肝芽腫の疑いは強いものの、きちんと確定しなければ・・・との事もあり承諾して手術に踏み切りました。

あとから思った事ですが、生後8ヵ月の時に突発性湿疹をやったのですが、夜中に40℃を超える熱を出し11時までやっている小児科に連れて行った時にそこの先生に『腹部が張ってるな・・・』と言われました。もうその頃には腫瘍ができてきていたのかな?とも思います。それと食欲はありませんでした。まだ、ミルクを飲む頃なのに、ほとんど飲まなくなりました。体重も横ばいで身長のわりには体重は増えませんでした。


★発症した時のこと★ ☆ 2003.3.8 神奈川 No.001 そうちゃんママ


きっかけは嘔吐と腹痛。会社帰りに夫が買ってきたマクドナルドを当時2才3ヵ月の息子が夜9時に食べ、おまけにコーラもがぶ飲みして走り回っていたところ、突然「いったーい」と座り込んで嘔吐が始まった。
「あんなに食べて飲んですぐに走り回ったりするから・・・」とは思ったが大したことないと思い、嘔吐が一段落したところで夫がお風呂に入れた。後々振り返ると、このとき腹腔内破裂を起こしたわけでお風呂なんぞに入れたことを思い出しぞーっとした。

その時腹部にコリコリがあることに気づいたが、私は「食べすぎで胃が固くなったんじゃないの」ととんでもなく楽観的なことを言っていた。息子は初めての子で、それ以前はあまりにも心配しすぎて医学的には全然大したことないような状態でも慌てて小児科に連れて行ったことが何度かあり、
「私はちょっと心配しすぎらしいから少し大らかにせねば・・・」
と思い始めていたので心配はすごく心配だったが、自分の心配度から4割くらい割り引いたところが実際の状態なんだろうと思っていたのである。
それでも「子供の病気」という本を見て私が考えた最悪の病名は「腸重積」だった。

その夜は心配であまり眠れなかったが、翌朝にはだいぶよくなり、昼ごろにはずいぶん元気になってきたので、当時生後2ヶ月の弟もおり運転も出来ないので病院は行かなくてもいいやと考えていたのだが、会社に行った夫が「どうしても気になる」と早退して帰宅したので夕方近所の小児科に連れて行ったら、先生は触診するなり「これは大きい病院に行ってもらうかもしれないよ」と言った。
それからすぐに基幹病院に行き、「腸重積」の疑いで検査をしたが夜8時すぎに先生に呼ばれて告げられたのは「肝臓に腫瘍がある」ということだった。「がん」という言葉はすぐに浮かんだが、物をはっきりと質問する性格の私でさえ「がんですか?」という質問は怖くて出来なかった。

翌朝には神奈川県立こども医療センターへ転院することが決まり、転院後すぐに検査が始まり、夜になって
「肝芽腫」であることが告げられた。お腹の中で破裂しているだろうということも一緒に・・。
発症時のAFPは39,000。

今から思えばその5ヶ月くらい前から体重が横ばいだったが、偏食が激しかったのでそのせいか成長の個人差だと思っていた。1ヶ月前くらいからは歩くのが好きなのに散歩に行くと「抱っこ抱っこ」と歩きたがらなかった。でも弟が生まれたばかりだったので赤ちゃん返りだと思っていた。




 告知のあった一日 back

★告知のあった一日★ ☆ 2004.4.27 No.003 神奈川takaちゃんママ


今まで、嫌だった事はあまり思い出さないでおこう・・・と思ってきた私ですがDr.Tに気付かせて頂きました。
嫌な事から逃げてばかりでなく、向き合う事も大事だな。強さだな、と。

そんな私ですので、その時は今思うとひどい有様です。
病気がわかるまで、「何となく具合が本調子でなさそう?」となり微熱が続き、近くのかかりつけの小児科に行ってました。「風邪でしょう」という事で抗生剤を出していただきましたが、「何か元気がない?」。
そのうち、メソメソしてばかり。「どうしたのかしら?」それが続き、血液検査をしたところ、「コレステロール」が高いという結果が出て、「それって変じゃないですか?」というところから急展開でした。
それから2〜3日して、あの日「少しお腹検査してみましょう」という事でCT、MRIをしました。何だか胸騒ぎがしたのを覚えています。その待ち時間の長い事。きれいな待合室のテレビで「リング」やってました。正確に覚えていませんがかなりの時間でした。朝来たのにいつか夜になり、時間もわからないけれどその時がきました。「盲腸かしら?」なんて思っていましたが、先生が「肝芽腫」とはっきりおっしゃいました。その瞬間、真っ白。AFPやら画像がとか聞いた気もしますがよくわからない。子供にその後、何か言いにいったのか、どうやって帰ったのかまるで記憶にない。ただ「この病院では無理なので、こども医療センターに明日転院して下さい」と先生がいいズシーンと心が重かったのは覚えています。翌日救急車で病院へ向かい車中で、「ほんとにとんでもない事になってしまった。」と考えていました。しかし、「取り乱してはいけない」なんて事も感じてました。

そして初めてDr.Tとの対面。「昨日の診断結果が間違っていてほしい」と願いました。その日から入院する事になり、翌日再検査する事になり病室に行きました。初めて見た、こども医療センター。いつもかかっていた病院とは全然違い、重い病気の子供達ばかり。そして病棟に行くと、話には聞いていたけど、つるつるの頭の子供達。どう「話して良いのか」さえ分かりませんでした。もうじき七夕なので願い事をかくようになんて聞きましたが、まるっきりでした。きっと、これは悪い夢だ、なんて思おうとしたり。この日も思い出せるのはここまでが限度。翌日検査。当日も夢の中でまた検査がやたら長い。主人と何も話す事もなく、ずっと待ちました。そして、夜遅かったと思いますが告知。
Dr・Tを中心に外科のDr、内科のDr、麻酔科のDr、相談室の方、たくさんいたような。やはり、間違いでなんか無かったんだ、と思い知りました。「AFP92万、巨大な腫瘍、なので明日生検、IVH、の手術をします。」ですので「手術の同意書」「輸血に関する同意書」などなど説明を受け、「いっぺんに言わないでよ」とパニックになりました。その時わりと主人は冷静だったような気がしましたが、後からその日のメモを見せてもらったら「何の事やら?」でした。私が、「そんな辛い事させられない」とかどうしようもなくなっていたとき、Dr.Tに一喝されました。
しかし、それで、私のモードが少々変わったのは事実です。その時少し辛くて、「何が分かるのよ?」とおもうのと同時に、こわかったというのがありました。Dr.Tは衝撃的でした。
絶望感のみで、これからの希望が全然持てず、ただただ長い三日間でした。

こう思い返してみると、自分の思い方の癖がよくわかります。見苦しいなと。反省しました。


★告知のあった一日★ ☆ 2004.4.20 神奈川 No.017 いっちゃんママ


近くに住んでいる主人のご両親から、最近の息子の様子(食欲がなかったり、妙に甘えん坊だったり)が気になっていたらしく、「一度病院で見てもらったら」とすすめてくれた事がきっかけで、2002年10月12日(土)にかかりつけの病院に行きました。
 
そこの先生は、お腹がかたいのと簡単なエコー検査で、恐らく腫瘍がある事は分かったらしいのですが、私には、「子供の臓器にしては大きいのが気になる」と言う話だけで、もう少し詳しく検査の出来る病院を紹介してくれて、土曜の午後だった為、次の日は休みで、たまたま月曜日も体育の日で祝日だったので、検査に行くのは火曜日の予定でした。しかし、帰り際に「この連休の間に気になる事があったら、救急に対応している所に行って下さい」と言われましたが、まだその時には、事の重大さには気づいていませんでした。

家に帰って紹介状をふと見ると、封がしてありませんでした。
もちろん「臓器が大きいってどういう事?」と気になっていたので見てみると、「腹部腫瘍?」と書いてあいました。
見た瞬間はショックと言うより「えっ???」と言う感じで、良い結果でない事は分かっていても、非現実的な事のようで、どう受け止めたらいいのかまったく分からない状況でした。
それから、主人とインターネットで色々検索したり、看護師をやっている友達に電話したりしましたが、結局は、詳しい検査をしてもらうしかないと言う結論に達しました。

次の日の日曜日は何事もなく過ごしましたが、月曜日、朝御飯までは普通に食べましたが、その後、少し遊んでいて眠くなったのかぐずりだし、でも眠いわりには体が冷たかったのが、私も主人もとても気になり、紹介状の中味も見ていたので、救急外来のやっている病院に行く事にしました。

血液検査とレントゲン検査をやっていただき、すぐにレントゲン写真を見せられ、恐らく腫瘍である事を告げられ、今度はCTを撮りに行きました。そして、検査が終るやいなや、検査室内で、「ここで申し上げるのも何ですが、悪性の腫瘍に間違いありません。」と言う様な事を言われました。もうそこからは、こんなに涙ってあるんだろうかと思うくらい、涙が出て止まりませんでした。紹介状を見ていたので、ほんの少しは覚悟もしていたのですが、やっぱり間違えであってほしかったし、「どうして?」「何故?」と言う言葉が頭の中をぐるぐるまわり、この先どうなるのか想像もつかなくて、不安でいっぱいでした。

そして、「この病院には小児外科がないので、系列の大学病院か子供医療センターに転院する事になりますけど、どちらがいいですか?」と言われましたが、その時、私達には病院を選ぶ余裕もなく、「ただただ、息子を助けて下さい」と言う気持ちだけで、「おまかせします」と言った気がします。それから正式に病院が決まるまで、実際は2時間くらいだったのでしょうか、でも私達には、4時間にも5時間にもとても長く感じられ、不安だけが募りました。
そして系列の大学病院の方になり、私達3人は病院が救急車を呼んでくれて、それに乗って行きました。

この日は祝日だったので、大学病院では血液検査とエコー検査くらいしか出来ませんでしたが、小児科の血液専門の先生が来て、前の病院で撮ったCTを見ながら、小児ガンの事、生検の事、恐らく肝芽腫だろうと言う事で、説明してくれました。知識がないだけに、前の病院で待っている間は、最悪の事も考えたりしましたが、小児ガンの事が少しは分かり、少しは希望も見えましたが、やはり、この先の治療が想像出来ないだけに、不安の方が大きかったです。



★告知のあった一日★ ☆ 2004.3.29 北海道 No.007 瑞輝ママ

瑞輝の病気が発見される少し前から食欲が落ちていました。体重も横倍だし、なんだろうね〜って感じでした。
11月1日に咳と鼻水が出ていて『明日は誕生日だし、病院に行っておこうか』という事になりました。まさか入院するなんて思ってもいないから、ケーキが届き私も誕生日パーティーの用意をする為、下ごしらえをしてから出かけました。

いつものかかりつけの病院に行くと、風邪の症状より瑞輝のおなかの膨らみが気になったようで、Drはレントゲンを撮ってくるように言いました。とりあえず、ワケがわからないけど言われたとおりレントゲンを撮りに行きました。レントゲンを持ってまた戻ってからこう言われました。
『風邪の菌が入って肝臓部分にモヤがかかってるか、それとも・・・』と言って聞いた事もないような病名を言ってました。入院設備のない病院なので、大きな病院に自分の後輩がいるから、そっちにすぐ行って!と言われ何が何だかわからないけど泣きそうになりながら旦那に電話しました。

旦那と3人で病院に行くとすぐにCTを撮りに行きました。
撮ってからかなり経ってるのに結果が出なくって、正直焦ってきました。
1時間以上も経ってDrが来て一言。
『悪性腫瘍の疑いがあります。ここでは治療できないので小児センターに行って下さい』と言われて、私も旦那も『???』って感じでした。

私の母は看護師です。すぐ電話して『悪性腫瘍の疑いがあるらしい』と言うと電話口で泣いてました。それで初めて事の重大さがわかった状態です。高速を使って小児センターに向かったのですが、車内で不安を紛らわせる為ひたすら旦那と話をしていました。

センターに着き、瑞輝はすぐ点滴のルートを確保に行きました。
一体なんなのかわからず、前の病院から持ってきた採血データ・CT写真を見て言われた言葉が『肝芽腫という小児ガンだと思われます』と冷静に言われて頭が真っ白になりました。20歳で子供が出来ないかも知れない・・・と言われずっと薬を飲んで、2年かかってやっと出来た子供なのに・・・って考えたらすごく悲しくて涙がとめどなく出ました。もう一生分泣いたんじゃないか?ってくらい泣きました。何人も子供を産んでも、大きな病気をする事なく健康に育ってる子だっているのに何でうちは一人目でこんな事にならなきゃいけないの?ってず〜っと思ってました。ただひたすら瑞輝に謝り続けてました。

来てくれた私の母、妹は泣き続けました。父も目を真っ赤にしてました。
早めに親には帰ってもらって、旦那と2人瑞輝の傍にいたのですが、旦那も次の日仕事の為帰ってもらったのですが、自分の父親に電話した時声を聞いて安心したせいか車を止めて号泣したそうです。。。

あの日の事は死ぬまで忘れられないと思います。
だって、瑞輝1歳の誕生日の日が告知された日と同じだったから・・・。


★告知のあった一日★ ☆ 2004.3.6 東京都 No.018ヒロのママ


ヒロの異変があったのは、2002年7月2日の暑い日でした。
前日にパパが夏風邪をひいてしまい、会社を休みました。狭い家です、パパの風邪が移らなければいいなと思いながら久しぶりの平日、親子3人での穏やかな日が過ぎました。翌日、朝からヒロの具合が悪く、「あ〜、やぱりパパの風邪が移った!パパを隔離しておけばよかった」と後悔しながら病院の一般外来に連れて行きました。
結果、『即入院』でした。何故発熱しているのか、わからないので念のためと言われました。私としては、過去12回入院しているので「あ〜、いつもの風邪からくる喘息だ」と安易に考えていました。

入院した病院は完全看護だったので、面会時間が決まっていました。次の日(『X-DAY』です)の面会時間に行ったら検査すると一言も無かったのに看護主任さんが「今日はヒロくんたくさんの検査をしたのよね!頑張ったんですよ」と言われました。あわてて主治医が来た時に聞いたら『お父様は今日面会に来られますか?ご両親一緒にご説明したい事があります』と言われました。頭が真っ白になりました。12回の入院の時は全て私1人が病状の説明を聞いていたのに、何故父親と一緒なの?何故、何かいつもと違う病気なの?
あわててテレホンカードを持ってパパの携帯に電話をしたのを覚えています。

パパも夕方6時には会社から病院に来てくれました。すぐさまナースセンターのはじの席で、主治医と研修医らしき先生2人と看護婦さんが何人かいる場所で、ヒロが1人で頑張って検査した画像が前面に張り出されました。その他、採血の結果などいろいろな数字が机の上に置かれていました。

『肝臓のかなりの肥大があります。腹部の膨張もあります。熱も抗生剤を投与していますが全く効きません。採血の結果【悪性腫瘍】の可能性が一番高いです。当病院には悪性腫瘍を治療する事は出来ません。明日にでも母体である病院へ転院してもらいます』

確か「このような」説明を受けたような気がします。でも、正直はっきり覚えていません。病室で「うーうー」うなっているヒロを見て涙が止まらなかったのだけは覚えています。もちろん、その『X-DAY』の夜は一睡も出来ませんでした。【悪性腫瘍=癌=死】というTVドラマの中の事がヒロに襲いかかってきたと思いました。何故我が子の上だけに病が降ってくるのかと泣いて泣いて、翌日目を真っ赤にして病院へ朝行きました。

転院して母体の病院(今の通院している病院)で、転院した当日に生検してみないとはっきり診断は出来ないけど『肝芽腫』の可能性が高いと説明を受けました。不治の病でもないという事も聞き、心配の中にも安堵した気持ちが沸いて来ました。その時は、不思議と冷静でした。きっと昨日の大泣きで涙が枯れてしまったのかもしれません。『肝芽腫』の説明は、最初は生検を担当する“小児外科”の主治医から受けました。その後(確か1週間程度は時間があったような気がします)生検が済み化学治療が始まる時に今現在の“小児科・血液班”の主治医から『肝芽腫・低分化型』と説明を受け、この時一番詳しく告知を受けた気がします。この時期が幸いだったのか、前の病院での告知や小児外科の主治医の告知と3回目だったので冷静に聞き、メモもきちんと取れた気がします。

3回目の告知の時に入院は、順調に進んで6ヶ月間と言われました。ヒロは、その6ヵ月半後に無事手術と化学治療を終え退院しました。


★告知のあった一日★ ☆ 2003.3.5 神奈川 No.001そうちゃんママ


1999年4月14日(水)  (前日夜間救急で地域の基幹病院へ行き、「肝腫瘍」の疑いで緊急入院していた)

朝、昨夜の女医さんが来て、「ここで検査をするよりも、こども医療センターで腫瘍の専門家に診てもらった方がいいのでこれから転院してください」という。昨晩はもう少し検査をしてからこども医療か横浜市大に行くことになるだろうと言っていたのにどうしたんだろうと思いつつも、先生が「とにかく早く」という感じだったので、急いで夫に連絡をし、実家の車を借りて来てもらうようにする。当時、我が家には車がなかった。

2才3ヶ月だった爽は昨夜以来点滴でぐるぐる巻きにされた手が気に入らず、「はーい」と私に手を差し出しては取れと言う。
「だめだよ。お母さんには取れないんだよ」
と言うと、怒って手を支えている板でぶったり、もう片方の手でひっかいたりする。先生にお願いして点滴を早めに取ってもらい、夫が到着してから先生の説明を受ける。先生は偶然にも半月前までこども医療センターの腫瘍科にいたそうで、紹介されたDr.Tは元上司だと言う。

たまたま前日の夜間当直がそういう先生だったというのは、大変な幸運だったと今になって思う。肝芽腫のような稀な病気は一生小児科医をやっていてもお目にかかれる人はそういないはずだし、先生は昨夜レントゲンとエコーをやっただけでカルテに「肝芽腫の疑い」と書いていた。この先生は爽がこども医療で入院している間に別の病院へ移ってしまい、その後お会いしていないのだが、ぜひとも一度お会いしてお礼を言いたいと思いながらまだ果たせていない。

退院手続きをしてこども医療センターへ向かうため、近所のスーパーの駐車場へ爽を抱っこして出ると、桜吹雪だった。暖かい太陽の光と薄いピンクの桜の花びらの美しさが今の自分の気持ちとあまりにも対照的すぎて、逆に「つぶれてたまるか!」とくじけそうな気持ちをとりあえず叩きつぶすことに成功した。
病院へ向かう車中、爽は点滴から解放されたことと大好きな車に乗れたことで大喜びだった。

12時少しすぎに病院に到着し、すぐに受付をすませ計測を終えた。わりと近くにずっと住んでいたのに来たのは初めてで、ずいぶん古い病院だなあと思った。病院への道のりも迷路のようだったし、病院の中も迷路のようだった。
しばらくして腫瘍科の6番の診察室に呼ばれた。
大きな病院のえらいお医者さんに対する私のイメージはそれまでの経験から最悪に近く、、「そういう医者だと嫌だなあ」と思いつつ診察室に入った。

中に入って座っている医師を見たとたん、「はずれたかなあ」と思った。
怖そうに見えたのである。それが後にさんざんお世話になるDr.Tの第一印象だった。
Dr.Tは退院してきたN病院で撮ったレントゲン写真を見ながら、「肝臓に腫瘍があること」「子どもの場合肝臓に出来る腫瘍としては肝芽腫が多いということ」などを説明し、とにかくこれから入院して詳しく検査することを話してくれた。
しばらくして入院病棟に案内された。別名4東という、幼児内科病棟である。ここは3才から小学校入学前くらいまでの子どもたちが入院する病棟で、爽はまだちょっと小さかったが、長く入院することになるので途中で病棟を変わるよりはよいだろうという判断でこの病棟になった。入院してからの主治医はA先生という若くてきれいな女の先生だった。ここでこれからするいろいろな検査の説明などを受けたはずなのだが、やはり動揺が激しかったのかほとんど内容に記憶がない。そのくせ「若くて美人でお医者さんって本当にいるんだなあ・・」などとしょうもないことを考えていたことは覚えている。

すぐに麻酔をしてCTスキャンの検査が始まった。私と夫は病室で待っていたり、病棟のすぐ外のベンチに座って待っていたりした。その間も何度か爽はストレッチャーに眠ったまま乗せられて行ったり来たりしていた。A先生とは別にDr.Tも何度か通りかかった。今どういう状態なのか訊きたいのはやまやまだったが、テレビドラマなどではこういう状況で医者に何か訊いても「もうしばらくお待ちください」とか言われるのが関の山だと言うことが分かっていたので、最初に通りかかった時も夫と一緒に頭を下げただけだった。するとDr.Tは軽く会釈をし、「今こういう検査をしているのでもうしばらくお待ちください」と言った。その後も通りかかるたびに「今度はこういう検査をしています」とか「7時頃にはナースステーションでお話できると思います」とか、こちらが訊かないのに必ず一言声をかけていってくれるのである。最初に診察室で話した時には気づかなかったが、話し方も声も暖かく感じた。
「よかった。当たりだ」と思った。

Dr.Tの言った通り、7時すぎにナースステーションに呼ばれ、A先生とDr.Tの2人から話を聞いた。
やはり肝芽腫とのことだった。CTの写真を見ながらDr.Tが腫瘍の場所や破裂しているだろうということを説明してくださった。爽の肝臓は約3/4弱が腫瘍に侵されており、下の一部は腫瘍が破裂して出血し、そのために腹痛と嘔吐を起こしたのだろうという話だった。今のところ肺に転移はないようだが、細かいところでは分からないとも言われる。
入院予定は1年間。金曜日(翌々日)か遅くとも来週初めには手術をすることとなった。
説明の最後にDr.Tが「何か質問はありませんか?」と私と夫を見ながら尋ねた。
Dr.Tと目が合った瞬間不覚にも涙がこぼれてしまった。泣くとそのままずるずるくずれていってしまいそうだったので「泣かない」ということに全神経を集中させたが、それでもちびちびと溢れてきた。仕方ないのでハンカチで拭こうと思ったがこういう時に限って持っておらず、夫に借りた。

そのあとの記憶は完全にとぎれている。帰る時、爽はまだ麻酔から目が覚めていなかったような気がするが、はっきりしない。次に覚えているのは、家に向かう車の中である。
「爽は死んでしまうのだろうか。1年入院というけれど、生きて退院できるのだろうか」
私は、そしてたぶん夫もそう思いつつ「死」という単語は絶対口にしなかった。
「パジャマを買わなくちゃ」とか「オムツがもうないよ」とか、ひどく現実的な会話しかしなかった。
途中、私の実家へ寄って病気のことを説明し、生後2ヶ月の弟、慧を引き取って帰宅した。帰宅してすぐに心配してくれていた隣人のSさん宅へ行き、玄関口で簡単に報告した。
「爽が肝芽腫っていう小児がんで・・」と言うとSさんは「なんで・・」と言ったきりぼろぼろと涙をこぼした。それまではちょっと親しい隣人という感じだったSさんはそれ以降、全入院期間に渡って最強で最良の理解者となってくれた。
そしてこの日このあとの記憶はやはりない。



 手  術 back


★手術★ ☆ 2004.2.2 神奈川 No.017いっちゃんママ


最初の手術の時は年末年始をはさんでいたせいか、手術を行なう事を決定してから手術当日まで3週間あったので、実際に手術を行なえるかどうかとても心配でした。というのは問題が2つありました。
1つめは、最初の化学療法の時に「血球貪食症候群」という合併症になってしまい、プレドニン(ステロイド)という薬で抑えていましたが、この薬は手術後の傷の治りを悪くしてしまう為、ネオーラル(シクロスポリン)と言う薬に変えなくてはならなく、この薬で効かない場合は手術が延期になってしまう可能性があったかえらです。幸い、この薬で抑える事ができました。
2つめは、咳と鼻水の風邪をひいてしまい、ちょうどお正月の3が日は39度の熱が出て、CRPも9まで上がってしまいました。5日前から抗生剤をやっても下がらなかったので、白血球も充分ある時だったので一度全部やめてみたら、徐々に熱も下がり、手術当日には万全の体勢で迎える事ができました。
手術は平成15年1月8日、肝臓の拡大右葉切除を行いました。
午前11時くらいから始まり、終了したと先生からの説明があったのは、18時30分頃でした。
切除したものを見せられた時は、ちいさな体によくこんな大きなものが入っていたものととても驚きました。と同時に何故もっと早く気づいてあげられなかったのだとうと申し訳ない気持ちでした。ICUでの面会も多少ボーっとしているものの、話が出来る程でした。術後もとても順調で、翌日にはもう「おにぎり食べたい」とか「おせんべいが食べたい」とか言っていたらしいです。

<術後の経過>
1日目   肺の管が外れる(横隔膜も切除した為、管が入ってました)
2日目   夕方から水が許可される(何か食べたいとしつこく言っていたので、早く許可されたらしいです)
3日目   鼻と尿の管がはずれる
       3時のおやつ(ゼリー・牛乳)から食事開始
4日目   腹部の管がはずれる
7日目   ICUから一般病室に移る
8日目   化学療法開始 

2回目の手術は、また整理して投稿します。


★手術★ ☆ 2003.11.19 東京都 No.018ヒロのママ


最初の手術の予定日は、平成14年9月10日(火)の予定でした。しかし、2回の科学治療で73%の肝芽腫の縮小は見られるも、“3区域に肝芽腫が存在する”という理由で前日の夕方5時に延期が決定しました。
小児科・小児外科の主治医の先生方も悩みに悩んで延期を決定したみたいですが、ヒロは浣腸されるは禁食はもちろん、水分も禁になっていたので大ぐずりでした。
どうせ延期にするなら、もう少し早く決定してくれればヒロはもちろん、私たち親も『明日は手術だ!』というものすごい緊張感と戦わなくても良かったのにと思ってしまいました。
でも、ヒロと夜ご飯を食べている時に、緊張感が無くなると同時に『あ〜、肝芽腫が広がって転移とかしたらどうしよう』という恐怖に変わっていったのも、今でも身が震える感じ覚えています。

その後、2回も科学治療を終えて、平成14年10月29日(火)に拡大右葉切除術を行いました。
結局、肝芽腫は小さくなったものの『小さくなって欲しい所』が残ってしまい3区域切除になりました。主治医の先生方も『これ以上の科学治療での肝芽腫の縮小はないだろうし、AFPの下がりかたも1、2回目よりも3、4回目の方が悪くなっているので、拡大右葉切除術を行います』と説明してくれました。

≪手術までの経過≫
H14.10.27.  朝晩2回の浣腸をする
H14.10.28.  朝晩2回の浣腸をする
         朝〜禁食となる(その代わりに点滴は1つ高栄養になる)
         夜中12時〜水分禁となる
【術前のAFP・・・5200】

H14.10.29. 
  AM6:00   体温、浣腸、身体ふきをしてあげる
  AM8:00   小児科出発して手術室へ向かう
  AM8:30   手術室へ笑顔で入っていった
  AM9:00   手術開始
           ≪手術≫
  PM4:30   手術室から出るので向かえに行く
           抜管されていて、「ママ!」という小さな声に涙が出ました
  PM5:00   小児科の集中治療室(ハイケア)に到着
  PM6:00   小児外科の主治医から切除した肝臓(ホルマリンにつけられていました)を見せられ肝芽腫の           部位の説明を受ける
【術後のAFP・・・3300】

H14.10.30.   術後の最悪な事は起こらず、順調に術後1日目が過ぎる
          上半身だけに酸素のテントみたいな透明なシートの中にいた
 H14.10.31.   その酸素のテントと鼻に入っていたチューブが抜ける
 H14.11.1.    尿管が抜ける。薬が経口からとなり、お昼から水分が許される(300ml/1日)
          しかし、夕方に大量に緑色の液体を私の目の前で吐く。
          すぐに再度鼻にチューブを入れられる(緑色の液体は胆汁であろうと説明される)
 H14.11.2.    腹部のドレーンが抜ける
 H14.11.3.    術後に続いていた発熱がやっと平熱になる
 H14.11.4.    鼻に入っていたチューブが再度抜かれる。水分が許される(500ml/1日)
 H14.11.5.    小児科の集中治療室(ハイケア)から出て一般病室に戻る
【術後1回目のAFP・・・1035】

 H14.11.6.    5回目の科学治療開始。ここからの1ヶ月間は、ヒロが一番辛かった1ヶ月に思えます。
          吐き気、下痢、輸血のたびのじんましんのアレルギー、食事も1ヶ月間全く食べれませんでした

今、改めて思う事は、「よく頑張ったね」って感じです。
手術を待っている間は、小児科の主治医の先生はもちろん、看護婦さんが私を見るたびに声を掛けてくれました。ずっと黙っていると「悪い方へ悪い方へ」と考えてしまい、とても助かりました。主人とも話す事は悪い事ばかりだったので・・・。

それに、小児外科のグループの他の先生が何度の手術の状況を説明しに来てくれたのにも助かりました。「あ〜、もうすぐ終わる」という実感もあったし、大げさかもしれないけど『一緒に闘った』という感じもありました。

本当に長い1日でした・・・。

余談ですが、傷を止めているのが糸ではなく『巨大なホチキスの芯』だったのに驚きました。なんだかホチキスはとても痛々しく見えました(@_@)。


★手術★ ☆ 2003.4.19 北海道 No.007瑞輝ママ


手術の前日の朝から食事がSTOPになりました。当日の6時に水分がSTOP。
【AM】 8:00 検温・血圧を測る
     8:30 前投薬(座薬)・術着に着替える
     8:45 検温・血圧を測る
     9:00 手術室に入る

【PM】 7:00すぎ 手術終了 肝腫瘍摘出!見えるところは全部取れた
     8:00    ICUへ・・・
     9:00すぎ 両親ICUで面会

手術前に正常な肝臓は1/5しか残らないと聞いていました。肝臓は再生するとか知っていても、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
瑞輝は手術の約1週間前から、原因不明の下痢に悩まされました。
風邪なのか何なのかわかりませんが、オムツかぶれを起こすくらいヒドイ下痢でした。
その為、点滴が増えました。T3とヴィーンFの2個と整腸剤と抗生剤を服用しました。
術前の検査は、血管造影・レントゲン(胸&おなか)・心臓エコー・腹部エコー・腎機能検査・肝機能検査・心電図をやりました。手術をした後で、摘出した肝臓を見せてもらいました。色もヘンな色でビックリしました。こんなに大きなものが、瑞輝を苦しめていたのか・・・と思うと憎らしくも思えましたが、完全に摘出できたので安心もしました。

術後、腹部にドレーンが入っていたのですが、なかなか体液(胆汁?)が減らず、『KN補液IA』を点滴で流しました。胆汁の色は薄くなってきたけど、術後8日経ってるのに1日150mlも出ていました。
その後抗がん剤(今度は全身投与)は術後10日で開始になったんですが、ドレーンが抜けてない状態でやる為、感染症などの心配が出てきました。しかし、少しでも早くに開始をして万が一取り残しがあったとしてもガン細胞を除去したいと言われました。結局術後15日かかってドレーンは抜けました。


★手術★ ☆ 2003.4.2 神奈川 No.001そうちゃんママ


うちは破裂していたので、ステージVAだったが入院の翌々日には手術をした。
拡大肝右葉切除。他にIVHカテーテル挿入と骨髄採取も同時に行った。

11:45  手術室に泣きながら入室。挿管。マルク(骨髄採取) ・ IVHカテーテル挿入術。
14:13  肝切除術開始。15:00 途中たんのう切除し病理検査へ。
17:00  肝背側剥離。出血増。17:13、輸血開始。17:53、肝切除開始。
19:27  肝切除終了、摘出し病理検査へ。
20:20  創部縫合(ステープラー使用)。ガーゼカウントOK。20:40 オペ終了。吸引。
21:18  麻酔終了。

術前の説明では「大出血の可能性あり ・ 周辺臓器損傷 ・ 肝不全・無気肺 ・ 輸血による影響」などを言われたが、そのことまで考えると間違いなく精神をやられてしまいそうだったので、ひたすら考えないようにした。手術室に入る時、2才3ヶ月だった息子がストレッチャーの上にちょこんとお座りしたまま不安そうに私たちを見ていた。

手術自体は一度出血が増えたくらいで順調に進んだが、それでも手術室から出てきたのは夜9時半頃だった。
後の病理検査によると、この時切除したのは12.7cm×7.5センチ×5.1センチ。重さ320g。出血が228ml。輸血が280ml。(なぜこんなことまで知っているかというと、退院してから1年分のカルテの開示をしてもらったからである)手術が終わって手術室から出てくる前に、外科の先生方に切り取った肝臓を見せてもらった。第一印象は「え、こんなに大きいの?」であった。そして破裂していたところに大網(たいもう)という腸を保護する網状の脂肪がガーゼとそっくりの外観で傷口に張り付いていた。この大網のおかげで最初の命拾いをしたのかなと思っている。

術後はICUに入り、1日半そこにいた。その間は熱の上昇と悪寒はあったが、イレウスなど術前に説明された合併症はなし。切った後が太いホッチキスのような金属で止められていたのには驚いた。
ICUに入った当初はいろいろな管が11本ついていたが、日に日に管の数は少なくなった。最初についていた管を全部覚えているわけではないし、カルテを見ても何の管なのかわからないものもあるが、参考までに術後に抜いていったものを並べてみると
術後2日目・・・ Aライン抜去 ・ ST抜去 ・ バルーン抜去
術後3日目・・・ エピドラ(背中につけた麻酔)抜去 
術後4日目・・・ Jバッグ抜去
外科病棟に移ってからも急激な熱の上昇やベッドの柵がガタガタなるほどの悪寒はあったが、大人では考えられないほどの回復ぶりだった。ただ、今後の治療のことを考えると「これでひと安心」とはとても思えなかった。

そういえば手術の間に、3〜4回主治医の先生(内科の)が経過報告に来てくれたのはとてもありがたかった。これってどこの病院でもそうなんでしょうかねえ。。。
あっそれと手術して1ヶ月でIVHが断裂してしまい、差し替えのためもう一度手術室に行きました。




 IVH(CVカテーテル) back


★IVH★ ☆ 2004/8/26 奈良県 026 たあくんママ 


今息子にはIVHがダブルで入ってますが、最近のIVHはヘパリンコーティングしてあるので、頻繁にヘパプッシュしなくていいそうです。息子に入っているものも最低2週間に1度したらよいとのことで、採血のたびにやってもらってますが、先日初めての外泊をした際にはヘパプッシュはしなくてすみました。
どんどん改良されているそうで、まったくしなくてよいというものもあるとDr.がおっしゃってました。(それはそれで不安な気もしますが)

ただ、IVHの管は強そうに見えて結構弱いとのことで、ねじれのせいで弱って交換しなくてはいけないということもあるそうです。息子は1才なのでベッドをごろごろしたりおむつ替え等で点滴のルートがねじれまくっていたときにDr.に「注意してください」と言われました。


★IVH★ CVとAポートとIVHの違いについて ☆ 2004/6/23 神奈川県 モモ 


神奈川県のモモです。
中心静脈カテーテルは、いくつか種類があるみたいです。今までに3つの病院でお世話になりましたが、2番目の大学病院ではCVを入れてました。でも、CVは1ヶ月しか持たないので何度も入れ直しました。部分麻酔で入れ、しかも大学病院では処置する先生は、いろいろな科を3ヶ月ごとに勉強している先生なので慣れておらず、1回で入った事がラッキーでした。息子の胸(刺入部)の傷は沢山あり傷だらけです。

それを見かねてか、A(エー)ポートを入れました。埋め込みの中心静脈カテーテルです。この大学病院で、子供にAポートを入れるのは息子で2例目で、手術の時「大人と感覚が違うので、カテーテルを入れすぎてしまい心臓の近くまで行ってしまいましたが大丈夫」と恐ろしい事を言われました。抜いてもう一度入れ直したので、手術に4時間もかかりました。(怒) それくらい、Aポートはめずらしかったのかな。
AポートはIVHが埋まっているような物で、皮膚で覆われており感染には強く、お風呂もプールも問題ありませんでした。
必要な時に皮膚の下のゴムみたいな物(ルートにつながってます)に特殊な点滴針を刺してつなげます。
刺す時の痛みはないと言われましたが、私としては痛々しかったです。針を刺さないとカテーテルにつながらないので、採血だけの為につなぐ事はなく、その時は腕から採血したので、その点ではIVHの方が負担が少ないですね。
Aポートは入れるときも抜く時も全身麻酔の手術なので、この点でもIVHの方がいいかな。それにゴムみたいな物を埋め込む分、肉の部分を少しえぐり取ったので、Aポートを抜いたらそこが少し陥没してます。なので、縫ったあととをあわせると、CVよりも大きな傷になりました。女の子には、ちょっときついかな。良い点は他にももちろんあり、ヘパ生のプッシュが4週間に1度すればいいので、先生が処置した時にして自分でやる事はありませんでした。もちろん皮膚で覆われているので、包交もしません。

Aポートは移植には使えないので(無菌室で針を刺す事は、感染につながってしまうので)今の病院に転院してしばらく使ってましたが、移植開始の1週間前にIVHに入れ替えました。入れ替え手術が終わった時に、主治医の先生から「(CVを入れるために使った)血管がかなり痛んでおり、外科の先生がIVHを入れるのにかなり苦労しました」と言われました。CVは治療には向いていないのかなと思ってました。しかし他のある大学病院では、CVで治療をしているそうです。自分にもっと知識があったら、傷は少なくすみ、痛い事ももっと少なかったのではと思ってしまいます。

どれも良い点悪い点があり、それはその時の年齢、治療の期間・方法などで、どっちがいいか選択が違ってくると思います。
今は、IVHを2年半入れてます。半年前になった違う病気の時に、頻繁に輸血をしたので、その時は移植が終わって退院する時に抜かなくて良かったと思いましたが、今は毎週の採血に使うぐらいなので、IVHがない方がもっと行動範囲が広がるのではと思います。でも、静脈がかなり傷ついてるので、もしもう一度必要になっても、入れるのは難しいと思います。今は、腕にIVHを入れられるようになったようですが、どうなんでしょうね。毎日処置をしている私のわがままですが、病気が安定して早く抜きたいです。

アトピーの私にとって、ヘキザック綿が手あれの悪化につながり、冬場は手にバンソーコーだらけで切れまくってます。水に触るだけでも憂鬱になります。それから、こうちゃんママさんの言われる「包交セット」、そうですよね。なぜ、そこの病院の売店で売ってないんでしょうね。イソジン綿棒、これがない。私は、前にいた大学病院まで買いに行きました。(ここでは、なぜかシリンジも買えちゃいます)大変お世話になっているIVH様ですが、安心して早くバイバイしたいよー。(息子も同意見です)


★IVH★ お風呂に入る方法・じくじくする ☆ 2004/6/15 002 神奈川県 こうちゃんママ 

一番最初に入れたのはダブル、現在のもダブルです。最初の治療が終わり、手術が終わり、術後の内科的な治療は終わっていたんですけど、もう一度手術しなくちゃいけなくなってそのために使う予定だったのにその手術のぎりぎりで化膿してしまって使えなくなってしまいました。
やっぱりうちの子もテープかぶれなんかで痒くなってしまって荒れてしまったり、ついつい手がのびてしまってさわってしまうのでその上からガーゼでカバーなんかもしてたから蒸れちゃったのかな。いつもじくじくしてました。

それでその手術の時はCV(簡易IVH)というものを使って乗り切りました。普通のIVHよりもきしゃな感じのするものだったような気がします。現在のは再入院になったときに再び入れたもので一年4ヶ月たってますが健在です。
特にいまの所問題もなく来てます。
でも、最初の頃や夏場は特にきついです。汗をかくとすぐじくじくしてしまって刺入部が赤くなるし、血がにじむときまであって。そんな時はイソジンゲルというべっとりしたもので刺入部覆ってガーゼで押さえて治していました。

そろそろ暑くなって来て、今年もどうなる事やら。今は私も包交を習って、朝起きると「痒い、包交して」って言う時もあるので一日おきくらいに包交してます。それからお風呂は、まだ小さかったころはベビーパスで、冬は部屋で、夏はお風呂場で入れてました。ルートをサランラップやビニール袋でくるんでスーパーのビニール袋に入れて首から下げて。でも頭とか、首の所がなかなか洗えないのでかわいそうでした。

今はもうベビーパスに入りきらないし、本人が暴れるのでルートをチャック式のビニールに入れてその袋ごとサランラップで刺入部の回りを覆って防水テープで貼って入ってます。これだと首も洗えるし、ばしゃばしゃしてもあんまり濡れないんです。ずいぶん研究して、この方法にたどり着きました。
でも、この方法はIVHのルートが以前よりも三分の一くらいの短さになったから出来たんですけど。

昔はフィルターとか沢山ついていたので長かったんですけど今はすごく短くなってなにかと、楽になりました。最初はヘパ生が入っていくのが見えなくて本当にエアー抜き出来てるのかなって思うときもありましたけど。なにより本人も楽そうです。
後は病棟で使っていたテープやガーゼ、イソジンステックが売店で販売開始になればよいなって思います。包交セットも近所の薬局なんかではあまり売っていなのでこまってます。


★IVH★ 感染症疑いで一度抜き、その後抜けて再々度入れ直し ☆ 2004/6/4 北海道 007 瑞輝ママ 


瑞輝は、入院して開腹生検をやった時に入れました。最初はIVHから高カロリー輸液を流していましたが名前の通り、カロリーが高い為、口から食事が出来るのにずっと流していたので、主治医と話流すのをやめてもらいました。
抗がん剤をやっている時とかはヘパロックにはしませんでしたが、それ以外状態が良ければロックしてお風呂に入ったり、プレールームで遊んでました。

しかし、術後数ヵ月経って全身投与が始まってから、熱が出て、炎症反応もだんだん上がってきたので抗生剤を服用しましたが、炎症反応は下がる気配もなく、逆に上がってきました。それで、IVHから細菌感染を起こしてる疑いがあり、口の中の検査(培養)をしましたが、院内の検査でカビが発見されました。結果、IVHからではありませんでしたが、やっぱり心配なのでIVHの入れ替えになりました。
ここでもまた問題が出てきました。折角入れなおしたIVHが1週間ほどで抜けてしまったのです。
その時、朝の検温で看護師さんが熱と血圧を測りにきてくれました。その時は全然もんだいなかったのですがしばらくして瑞輝を見ると胸の辺りが濡れてるような感じで服のボタンを取ってみると胸から点滴の液が漏れてきていました。
正直言ってこの時は、『感染症なんて起こしたらどうしてくれるの??』という思いでいっぱいでした。
入れ替えてたった1週間。何の為に瑞輝は痛い思いをしたのか・・・と考えると怒りさえ覚えました。その後、抗がん剤もないのでIVHは入れませんでした。
もし、AFPが正常にならないでもう1クールやるというなら別ですが、子供の可能性にかけたかったので入れ替えを拒否しました。主治医ともお話しをして決めました。

外出の時は、IVHが詰まらないように私がヘパロックをしていました。看護師さんの指導のもと毎日練習をして、直接瑞輝にロックする練習もしました。長期外泊になると大変なので主治医がヘパリンと生食の値を計算してくれその分量を注入しました。
最初は緊張していましたが、ある程度経つと慣れてきました。しかし、慣れすぎては事故のもとなので、毎日緊張感を持つように心がけました。 



★IVH★ ばんそうこうでアレルギー ☆ 2004/6/3 千葉県 綾ママ 


うちの子の場合は、最初の6コースやる時の術後の1コースだけシングルの細いのをやってましたが、退院時に抜いて帰りました。次の9コースやる時は、太いラインでしたがシングルを入れました。その時は2週くらい外泊できたので、自分で自宅でヘパロックしていました。退院前には、もう毎日看護婦さんと練習して、「即心臓と思って扱って下さい」といわれて清潔に管理するように気をつけていました。3回目に9コースやる時は、ダブルでやっていました。緊張感も倍以上でした。
そうですね、お風呂は気を使いましたね、3人兄弟の長女でしたから。3歳から始まったIVH付きの生活。始め妹がひとりだったのですが次に弟が生まれて長女と一緒に下の子も私が一人でお風呂入れなければならなく・・・・。薄手の大きなシールを張る事ができたので肩まで沈む事はできませんでしたが、パシャパシャかけてたりしてました。
夏は、ビニールプールでひやひやしている私の前で楽しそうに水遊びしてましたね。
でもお風呂や水遊びの後は、即全部はずしてイソジンで消毒、ガーゼ交換やりました。

始めは、近くの外科を紹介して頂いて消毒してもらってましたが、なれない先生に時間かけてやってもらうよりも自分が毎日見てますし、やり方覚えたので消毒セット自宅へ持ち帰って自分がやってもいいですかって先生にお願いしてやってました。そのほうが濡らしたりした時にすぐに対処できました。

うちの子もアレルギー体質のため絆創膏かぶれがひどくてずらしながらはってましたね。今は、抜いた後がケロイドになってすこし残ってます。
最後の治療の時は、あと一週間でIVHが抜けるっていう時に子供がバッジをつけて遊んでいて針を刺したのかもしれないということで少しもれてきてしまい結局抜いてしまいました
本人は、がんとして「違う、私はやっていない」と否定していましたが・・・・。
中には、鋏を使って遊びに夢中になって切ってしまった子もいました。 その時は、もう大騒ぎでした。

一緒に入院している子のお母さんの中には、「いいわね綾ちゃんは、両手使える点滴で。うちの子手を使えないんだよ、かわいそうでしょ」などと言う人もいましたが、さすが入院になれてるうちの娘。負けてはいません。
「○○チャンもやってもらえば。手術室でやんなきゃなんないんだよ、手に点滴しながらね」って。そのお母さんの事見もせずに言ってました。


★IVH★ 途中で断裂し入れ替え手術・じくじくする ☆ 2004/6/2 神奈川県 001 そうちゃんママ 


うちは最初のIVHはシングルでした。
ロックしているとき(*点滴につないでいない時)は首からさげたきんちゃくに入れていて、ヘパ生プッシュの時にそこから出してプッシュしてまたおさめるんですが、看護婦さんによっては出し入れがとっても荒っぽくて「あなたさあ、自分の子供のIVHだったらそういう扱い出来る?」って思うこともありました。
このIVH、入れて1カ月、1コース終わった段階で断裂しました。
かなり腹は立ちましたが、ともかく2コース目に間に合うようにと再び手術して反対の胸に入れました。2度目はダブルでした。
結果的にはCITAでAFPが正常値化しなかったので、ITECをやるためにダブルにしなければならなかっただろうから、ダブルになってよかったんですけど、やっぱり扱いの荒っぽい人は何人かいました。

結局このIVHで退院するまで化学療法をしたのですが、汗をかくとすぐにIVHが出ている周囲がじくじくと赤くなったり膿んだりして、そうなると外泊中でも毎日包交のために病院に帰らなくてはなりませんでした。血栓が出来かけて詰まりそうになったことも数回ありました。

息子はお風呂が大好きだったので、外泊といえども肩までつかって入れないのは辛かったと思いますが、(今のIVHは入れますか?) IVHがとても大事であるということは2才児なりに理解していて入れないことでダダをこねるということはありませんでした。

治療の最後の方は1センチくらい抜けてきて先生と一緒にヒヤヒヤして「何とかもってくれ〜」という状態でしたが、何とか最後まで取れずにすみました。退院の日に抜去した時は、うれしいのと同時に「ありがとね」という気持ちでした。

IVHを抜いて最初のお風呂のとき、息子は何度も何度も
「全部(*肩まで)入っていいの?  本当に全部入っていいの?」と聞いて
「いいよ」
と言うと、とってもうれしそうにお風呂に入りました。




 飲 み 薬 back

★飲み薬★ ファンギゾンに苦労 ☆ 2004.10.15 北海道 No.007 瑞輝ママ


瑞輝がずっと飲めなかったのは・・・って考えてましたが、全ての薬が飲めませんでした。
抗がん剤の後は便秘も酷くてラキソベロンというものを飲ませていましたが、見えないところでポカリに混ぜていましたが1度見つかって以来、それすら飲まなくなってしまいました。

ファンギゾンは、他の小児ガンの子が飲んでいるのにうちの子は最後の方でやっと飲ませてもらいました。
何で熱が出てるのか全くわからないって状態になってようやくですよ・・・。
これは正直、飲ませるのにはかなり苦労しました。

全ての薬において大変でしたが、鼻をつまんで無理矢理飲ませてました。可哀相って気持ちはありました。
でも、子供のためなのだから・・・って心を鬼にして(大げさかな?(笑))飲ませていました。何回も吐き出したり、泣き叫んだりしてました。その度に心は痛みましたが・・・。


★飲み薬★  ☆ 2004.10.4 秋田 中通総合病院小児科部長 渡辺新 医師


小児がん治療においては、苦い薬であっても治療のためには必要であって、他に代わるものがない薬はたくさんあります。今回のTKシロップが目指したのは、薬の持つ苦味を食材の持つ特性ととらえて、調理しておいしくいただいてしまおう、という凄腕の料理人の発想で作られました。
原材料はキャラメルと黒蜜(くろみつ)で、キャラメルの苦味で薬の苦味を後ろに隠してしまって旨味を感じさせてくれるのです。薬の苦味によって3段階の使い方があって、

 1)少し苦い薬はTKシロップだけを混ぜる、
 2)もう少し苦い薬には、きな粉と薬を混ぜてからTKシロップを混ぜる、
 3)もっと苦い薬には、きな粉とココアパウダーを薬と混ぜてからTKシロップを混ぜる、
の3段階です。

きな粉とココアパウダーが薬を包み込むため苦味がほとんど感じられなくなります。
具体的なターゲットとした薬はプレドニン、硫酸ポリミキシンB、ファンギゾン(錠剤をつぶしたもの)、ジスロマック(抗生物質)、クラリス(抗生物質)などですが、どれもこれも子供達が「おいしい〜」といって食べてくれました。「食べてくれた」と書いたのは、実際の出来上がりボリュームがやや多いので、パンやアイスクリームと一緒に食することをお勧めしているからです。

肝芽腫の子供達が服薬のストレスから解放されて、おいしい薬を飲む時間が待ち遠しくなることを期待しています。  草々


★飲み薬★ ファンギゾンに苦労 ☆ 2004.9.13 神奈川 No.003 takaちゃんママ


ファンキゾン!
我が家では「オレンジ色の憎い奴」とよんでいたような気がします。
飲み方も先生によって指導の仕方が違い最初は親のほうが参りましたが最後の方は息子は味わって「美味しい!」と飲んでいたような記憶があります。
「口に含んでくちゃくちゃとうがいをする感じで飲む」
これが正しい飲み方と当時のI先生の指導通りに息子飲んでました。


★飲み薬★ 格闘・・ ☆ 2004.9.3 奈良 No.026 たあくんママ


うちは入院したのが9ヶ月の時というのもあり、離乳食をたべさせて、ミルクの前に飲ませています。おなかいっぱいになると飲まないからと看護婦さんに言われたので入院当初からこのスタイルを続けています。
飲んでいるのは「バクタ」と「ファンキゾン」としょっちゅう便がゆるくなるので「ビオフェルミン顆粒」です。
風邪っぽいときには水薬か粉薬がでましたが、たあくんは甘い水薬より何故か粉薬を水でといたもののほうがスンナリ飲むのでかえてもらったこともあります。

最初はやはりまずいのか(いかにもまずそうですよね)おえっなってましたし、薬と察したら暴れてましたが、赤ちゃん抱っこで腕を拘束してしまって少しずつ口にいれてました。最近はいやがりますが、最初のひとくちで観念してしまい、おとなしく飲まされています。

たあくんの病院は粉薬は2週間分ほどまとめて渡され、冷蔵保存が必要なファンキゾンはその都度看護婦さんに配薬してもらってます。たまに忘れられるので、詰め所までもらいに行ったり、コールで頼んだりしてます。
お母さんから薬飲まされるのは慣れたようで、CTの前などに飲む眠るためにのむ水薬(なんという名前か思い出せません)も、看護婦さんに飲まされるのは暴れるので、私が飲ませてます。しかしあのお薬、よく効く子と効かずに酔っぱらう子がいるとDrに言われたのですが、たあくんは後者で、薬だけだと検査途中で目覚めて暴れ出すため薬を追加することが数回あったので、昼寝をさせずに我慢させて薬を飲ませるという方法になりました。それでも起きたときには酔っぱらい状態ですが。機嫌は悪くならないのでうきゃうきゃと端から見ると楽しそうなんですが、母の髪をつかんでふりまわしたりふらつきながら体をよじのぼったり‥‥大変です。


★飲み薬★  ☆ 2004.8.5 愛知 Iさん


2歳女児 : 術前二回化学治療、手術、術後4回の化学治療で、次回が三回目、の子を持つ親です。

飲み薬:現在、肺炎予防に「バクタ」、手術後の余分な肉芽形成予防(ケロイドの予防)に「リザベン」、便通調整にラキソベロンを飲んでいます。薬自体がいやで、はじめの数ヶ月は押さえつけて口に入れていましたが、常に食前に飲ませていたので、最近はスムーズに「早くご飯が食べたいから」と飲んでくれるようになりました。薬は、売店で売っている水分、栄養補給用ゼリー(1個140円、開封後一週間で廃棄)にはさんで一口で飲めるスプーンを使っています。

うちのこの場合は、ファンギゾンシロップ等飲んでいないです。同じ病棟の子で、白血病の子は殆ど飲んでいますが、やはり、とても苦労していますね。別の病院で、凍らせて削って食べる(シャーベット)と言うことをしていたところがありました。

そのほか院内で水痘など感染症が発生したら、それを予防する薬「ゾビラックス」や、術前は治療による腎不全の予防に「アロシトール」、風邪薬「ペリアクチン、アスベリン、ムコダイン」を適宜飲んでいました。

はじめはそのつどナースに配薬していただいていた(病棟のシステム)のですが、病棟の事情によって時間がずれるし、なるべく子どもの機嫌のいい時間に飲ませたいからと考え、思い切って朝に一日分配薬してもらえないか、と頼んだら、あっさりそうなりました。今では薬も決まっているので、一週間分もらっています。
はじめは少しプレッシャーがかかりましたが、ナースに頼んでいても間違いが起こるんだから、自分で責任もとう、と自覚するようになりました。


★飲み薬★ 製薬会社の方へお願い ☆ 2004.7.18 神奈川 No.001 そうちゃんママ


うちはもともと定期的に飲んでいる薬は入院するまでなかったので、薬を飲むことが苦手でした。
1年の入院生活で鍛えられ、ほとんどの薬は飲めるようになりましたが、たった一つ、「ファンギゾン(オレンジのドロッとした薬)」は最後までダメでした。

平均より身体の小さい2才児でしたが、看護師さん3人がかりで飲ませていたくらい大暴れして嫌がり、またやっと飲んでも気持ち悪くて吐いてしまうという状態だったので、外泊で私が飲ませる時はもう大騒ぎ。
家中追いかけ回してタックルしてから仰向けに寝かせ、私の足で爽の手足を抑え、スポイトに目一杯薬を吸わせておいて片手で頭を押さえながら鼻をつまみ、もう一方にもったスポイトで薬を口に入れていました。(何かこう書いているとほとんど拷問のようですね)
「感染予防の薬」と説明は受けていましたが、最初の頃はその重要性はまだあまりよく分かっていなくて、看護師さんたちがほとんど力ずくで飲ませていたのを見て
「なぜそうまでしなくちゃいけないのだ」
と腹を立てていました。でも少し経って主治医から「この薬が出来たおかげで感染症で命を落とす子供がすごく減ったこと」を聞かされてからは、こちらも上に書いたように必死で飲ませていました。
「命を守るためには仕方がない」
と言ってしまえばそれで終りなのですが、やはり小さな子供に飲ませるのですから、上手な飲ませ方を看護師さんが知っていてくれたら、研究してくれていたらと今でも思います。
が、それ以上に強く願うのは、「もう少し飲みやすくなってほしい」ということです。
あの薬の重要性とありがたさは身にしみて理解できるようになりました。感謝しています。
ただ昔はまずかった「バリウム」が今ではそれなりに工夫されて味も選べるようになったことに倣って、ファンギゾンももう少し飲みやすく改良していただきたいなあと言うのが製薬会社の方へのお願いです。


★飲み薬★ 製薬会社の方へお願い ☆ 2004.7.1. 東京都 No.018 ヒロのママ


ヒロの肝芽腫がわかり入院して、生検が終わり第1回目の治療が始まるとともに2つの薬を服薬するように主治医から言われました。
ヒロはもともと他の疾患の為にすでに3種類の薬を服薬していました。そのせいもあり、「なに2つ増えるだけか!」という気持ちでいましたが、その2つがとても大変でした。

ヒロの入院していた病院では、朝昼夕と担当の看護士さんがベッド脇まで持ってきてくれます。あらかじめスポイトと糖水で粉薬をとき、嫌がるヒロの口に無理矢理押し込むという方法で飲ませていました。しかし、治療が進むにつれ食欲が無くなり、吐く事も多くなるとその薬を無理矢理飲ます事で吐き気がよりひどくなった気がします。

朝の薬がずれ込む事はあまり無かったのですが、治療が昼から始まる事が多かったので、昼の薬から途端に吐き気が来てしまい大変でした。何度薬をスポイトで口に入れてもすぐに吐いてしまい、昼の薬が夕方になると夜の薬も就寝前になったりもしました。夜の薬も何度飲ませても吐いてしまう時には少々泣きが入りながら看護士さんに訴えてもOKが出るはずがありません。他の疾患の為にも飲まなくてはならない大事な薬です。消灯時間を過ぎてやっと飲み終えるという事もありました。

1度吐き気が来ると、すぐに何度も薬を入れてもすぐに吐いてしまうので、30分〜1時間は間をあけて母もゆとりを持ってやると案外スムーズに飲んでくれた気もします。きっと母の顔も鬼気迫る顔をしていたのでしょう。反省する点だと思いました。もっと早く気付いてあげれば良かったのでしょうが、こうやって振り返る事でわかるという事があるのに毎回気付かされます。
入院当時は、体も気持ちもいっぱいいっぱいでしたから・・・。
その後、治療終了とともにに1つの薬は服薬終了。もう1つは最終治療から1年間は服薬しますと言われました。

しかし、副作用として「吐き気」「食欲不振」などがわかっている化学治療なのに、どうして飲まなくてはならない薬が苦いのでしょうか?匂いからして苦い感じがしました。もっと飲みやすい薬が出来て、飲ませる親はもちろん何回も吐いてしまう子供達の苦労を少しでも軽減される薬が出来れば嬉しいと思います。




 生体肝移植 back


★生体肝移植★ ☆ 2005.7.15 埼玉 No.021 大翔ママ


【術後の問題・腹水】
こんにちは。うちの大翔も生体肝移植をした一人です。

腹水の件ですが、大翔もなかなか腹水が減らなくドレーンが長い間入っていました。1ヶ月半位入っていたと思います。
ドレーンが抜けてから、術後の治療を始める予定だったので、AFPが上がってこないか心配だったのを覚えています。ちょうどその頃、大翔が歩き始めた時期だったので、ドレーンを踏んでしまったり、引張ったりとあぶなっかったので、腹水が入るパックをリュックの中に入れ、背中に背負わせていました。いつになったら、腹水が減るか心配な気持ちが良く分かります。
私も毎日腹水の量ばかり気にしてみていました。必ず減りますと言われていても不安だったのですが、ドレーンが抜けたときは嬉しかったです。


★生体肝移植★ ☆ 2005.7.14 兵庫 No.025 ゆうすけパパ


2004年3月に発症して、CITA・ITECと治療をしてきましたが、切除手術が出来る方向に向かわず、移植手術の話を主治医に持ちかけられました。
夫婦で、さんざん話し合った結果もう1ク−ル薬(イリノテカン)を試してみましたが、それでもだめで移植手術に踏み切ったわけです。

手術前は、とてもとても不安いっぱいでドナーである母親もどうしていいかわからない状態でした。
だけど、こどもを助けたい一心でこの子の為に頑張ろうと決意しました。

手術にあったては、12時間にもおよぶ長い手術でした。
まず、子供が12時半にオペ室にはいり、2時すぎに、切除手術から移植手術にきりかえますとのことで、今度は母親が3時半すぎぐらいにオペ室にはいりました。
9時半ごろに、ドナーである母親が出てきました。
それからまた数時間待たされ、ICUにようやく呼ばれたのが夜中の2時半すぎでした。
長い長い闘いでした。
ICUに入って、子供の顔をみるなり、ただただ、お疲れさん、良く頑張ったな、としか言えませんでした。
本当にこれで良かったんだな、とその時、思いました。

これから、色々な意味で乗り越えて行かなければならない苦難や障害は、数知れずあるけれど、今となっては、移植手術を受けてよかったと思います。



★生体肝移植★ ☆ 2005.7.15 北海道 瑠凪パパ

【術前の問題】
当初は私(父親)の肝臓を移植する予定だったのですが、検査の結果「脂肪肝」と言われました。
この時は『そっか〜、じゃー頑張って1ヶ月で治すか』と思ってたのですが、主治医の先生方に「お父さんの脂肪肝を治してる時間がありません」と言われ、妻(母親)の肝臓を使う事になりました。
正直、恥ずかしい・情けないと思いましたが、手術日の前日までは今からじゃどうしようもないし、血液型の事を考えると妻ので良かったんだ。と割り切って考え、自分に言い聞かせていました。

【移植】
移植当日は、朝の8時から妻が先に手術室へ、娘は約1時間後に手術室へ行きました。双方の爺ちゃん、婆ちゃん等の家族ももちろん病院へ来ています。
移植を経験した方ならなんとなく解って下さると思うのですが、手術中私は誰とも話したくありませんでした。
むしろ、病院に居て欲しくない。終わったら連絡するから家に帰っててほしかったですね。特に妻方の両親に術前で書いた出来事の件もあるので『会わせる顔が無い』と思い情けない事に、目を合わせて話すのが辛かったです。
7時間後妻が戻って来た時が一番後悔しました。思っても仕方無い事なんでしょうが、やっぱり自分が切ってれば・・・もっと自分が気をつけて生活していれば・・・と思い、自己嫌悪に陥りました。
6時間後ICUから連絡が入り、娘を見に行った時は心の中で『よかったね。頑張ったね。ママに感謝するんだよ』と思いながら、おでこの辺りを撫でてました。泣く気は無かったのですが自然と涙が出てきました。
私にとって今後一生後悔する出来事なのかもしれません。なんせ脂肪肝は自分がしっかりしていれば、絶対にならない病気です。術後3日間は自己嫌悪に陥ってました。
ちなみに手術中は、「他人にとってはなんら何時もと変わらない1日」だと思えばちょっと気持ちが落ち着きました。又、第三者(ドナー経験者を除く)と話してみるのも良いですよ。

【術後の問題・腹水ほか】
5月に娘の移植が無事に成功したのですが、いまだに (*7/14現在) 胆汁と腹水の量が減らずドレーンが刺さっている状態です。(普通は胆汁は1〜2ヶ月、腹水は2週間で抜けるそうです。)肝静脈の拡張手術が1回、門脈の拡張手術を先週末にやったのですが、やっぱり腹水の量が減りません。さらに門脈の拡張手術の後、不整脈も出てしまい今は様子見状態です。
今週様子を見て腹水の量が変わらなければ、開腹してもう一度肝静脈の拡張手術をするそうです。やっぱり移植後は色々とあるみたいですね・・・。私も今後の医学が進歩してくれる事を祈ります。


★生体肝移植★ ☆ 2005.7.9 神奈川 No.035 へこたれパパ


【再発時の生体肝移植・術後の問題】
うちの娘も肝芽種の摘出手術後に残留が確認され、京大で私(父)をドナーとする移植手術を受けました。
移植後AFPは憧れの(?)一桁(4〜5)を維持しておりますが、術後3ヵ月の検診で胆管狭窄が確認され、狭窄部にドレーンを挿入し、バルーンで拡張する手術を行いました。
一回目は失敗で胆管にうまく刺さらなかったので一週間後のこの週末再手術となりました。今回は胆管にドレーンは挿入できましたが、狭窄部まで届かず、バルーンによる拡張は又一週間になります。小学校6年生の6月に肝芽種の認定を受けて一年以上が過ぎ、京都から横浜に帰ってきてやっと中学校に行けるかなぁ〜っと思ったのですがなかなかです。

移植は肝芽種の治療法としてもすばらしい方法だと今でも思っていますが、京大で皆さんのお話を伺っていると移植自体の術後の問題として胆管狭窄、肝門狭窄、拒絶と色々な問題が長期に渡ってのお付き合いになることが身にしみて分かりました。特に移植手術の成功率がどんどん上がっている中で、狭窄に関してはその発生確立が改善されていないそうです。
医学の進歩を願うばかりです。




 骨髄抑制 back

★骨髄抑制★ ☆ 2003/9/25 北海道 007 瑞輝ママ 


骨髄抑制は毎回起こっていました。
手術前に行っていた抗がん剤では確かに血小板や白血球は減ってきましたが、全身投与から比べると差ほど酷くなかったような気がします。肝動脈に直接抗がん剤を入れてる時も輸血(血小板・赤血球)もしていました。

全身投与はランダを丸1日かけて投与しましたが次の日は特に問題なくクリアしました。
そして次の日にピノルビンを入れましたが、カルシウムやマグネシウムが減るだけで血小板などに変化は見られませんでした。けれども6日目から白血球が減ってきて、それと一緒に好中球も減り始めました。
そして抗がん剤投与後10日目に空気清浄機が入れられました。その時の採血データが白血球1,100、好中球20、血小板56,000でした。次の日には血小板が36,000に一番減ったときで26,000にまで減りました。ある程度増えるまで血小板を2本入れてました。白血球は1,000ぐらいだったので毎日ノイアップを入れていましたが、なかなか増えなくっていつも横ばいと言われていたような気がします。その後、結構経ってから赤血球が減ってきて貧血が進み赤血球を一本輸血しました。

2回目も同じ抗がん剤を使用しましたが、1回目程ヒドイ骨髄抑制はありませんでした。ただ、白血球はやっぱり減ったのでノイアップは使用しました。この時は1,700とかそのへんをウロウロする程度でした。2回目という事もあって、もっと減るもんだ・・・と思っていたのですが前回よりあまり数値が落ちていなかったのでちょっとビックリしました。


★骨髄抑制★ ☆ 2003/8/30 神奈川 003 takaちゃんパパ 


「骨髄抑制」は5日間の化学治療が終わると必ず起こりました。
まず、「白血球」が落ち、続いて「好中球」が落ちる。Bランク状態になるのです。その後1週間位すると、「赤血球」を1回、「血小板」を2回点滴。それから、「ノイトロアップ」を点滴。これを、点滴すると全身の骨が痛くなる。そして、「好中球」が上がってきたら、外泊で家に帰る。毎回この繰り返しでした。 
入院から3回の化学治療が終わり、「腫瘍摘出」手術がありその後1年間の治療。あれは確か手術後2回目の化学治療が終わったあと、あまりにも白血球、好中球が下がりすぎ敗血症になってしまったこともありました。

本人は非常に痛く辛い事の繰り返しでしたが、病棟の看護婦さんドクター、そして、養護学校の先生(Bランクの時はマスクをしてベッドサイドで授業をして下さいました。)がやさしく、明るく対応して下さった事、そして、病室の仲間が励ましてくれた事が、良薬であったと私は思います。


★骨髄抑制★ ☆ 2003/8/26 神奈川県 モモ 


骨髄抑制は、抗がん剤の治療をしている時だけ起こると思っていましたが現在服用中の薬、ステロイド(プレドニン)、免疫抑制剤(プログラフ)、バクトラミン(またはバクター)で起きてます。

治療が終了して約3年になりますが、時には白血球が2000を切ることが多々ありました。薬の量を少しずつ減らしているので、今は白血球は3000台になる事が多くなりましたが、2000を切っている時は、しょっちゅう急性胃腸炎になり大変でした。
ヘモグロビンも低く、特に採血の量が多いとHb9で10になる事はなかなかありませんでした。
血小板はこれまたちょっと大変で、原因がいまいちわからない血小板減少になってしまい(移植後の晩期障害で、水痘になったあとにかかったりします)、1万をきったりしましたが、今は改善されて10万に落ち着いています。骨髄抑制がずっと続いていたので、なんだか麻痺してしまい正常値を忘れてしまいました。

白血球が2000切っていても、血小板が5、6万程度でも、子供はいたって元気なので出来るだけ普通の生活をしています。公園に行ったり、スーパーに買い物に行ったり。急性胃腸炎によくなりましたが、それ以外の風邪やインフルエンザ、流行病にはかかりませんでした。おそらく、外出時のマスクの着用、帰宅時の家族を含めての手洗いイソジンうがいが効いているのだと思います。

先日、ある大学病院の先生に聞いたお話ですが、マスクの着用はあまり効果がないと言われているそうです。それよりも、手洗いイソジンうがいが重要だそうです。一時期は怒ってまでもさせたマスクが、あまり効果がないかもと言われショックでした。しかし、はっきりとしたデーターが出ているわけではないそうなので、正確な事はわからないそうです。マスクを作られている会社の方は、100%防ぐ事は出来ないが、しないよりはしていた方が防ぐ事が出来るとおっしゃってました。私も同意見だと思いつつ、でもこの暑い中させてるのはかわいそうだなと感じ、やめようかなとも思っております。
感染は口からだけでなく、鼻や目からも起こると効き、なんだか困惑してきてしまいました。

骨髄抑制が起きている時、家でじっとしているのかそれとも多少の危険を承知して外で遊ばせるのか、そのバランスが難しいです。
今も骨髄抑制が続いていますが、9月から幼稚園に行かせる私はちょっと無謀ではと、思う時があります。


★骨髄抑制★ たんこぶを作る ☆ 2003/8/6 001 神奈川県 そうちゃんママ 


骨髄抑制中は吐き気嘔吐高熱といろいろありましたが、筆頭は「たんこぶ」です。

普通輸血直前で血小板が2万くらいだと子供といえどもそうそう元気よく動けるものではないのですが、当時2歳の息子はやたらと元気でベッド上ではもてあまし、仕方なくベッドからおろすとアスリートのように狭い部屋を行ったり来たり走ってはすぐに転んで頭にコブを作っていました。普通だったらコブなんてどうということもないしかえって「元気でいいわね」ですんでしまうのですが、これが大事になってしまうのが骨髄抑制の怖いところ。けれども最初にコブを作ったときはぶつけた強さの割にはずいぶん大きなコブになったなあと思うくらいで、大変なことだとは思いませんでした。

何回目かの時にたまたま訪室した看護婦さんに「ぶつけちゃったんですけど」と言ったら、さっと息子のコブを見て「先生に診てもらいましょう」と出て行きました。もう夜だったのですがすぐに先生が2人、しかも脳外科の先生が来たので驚くというよりも、「たかがコブで脳外の先生が2人なんて大げさな・・」と何も知らない私は能天気に思ってました。実は、血小板が少ない時に頭を打つと脳出血を起こすことがあり、実際に病院でもずいぶん前にそういう子がいたということを脳外科の先生たちが帰ったあと、看護婦さんから初めて聞いたのでした。

息子はその後も懲りずにコブを作り、外泊中にもコブを作って病院へ戻ったことが何回かありました。元気だったので手をつないで病棟に行ったら、「歩かせないでください」と看護婦さんに怒られたこともあります。見た目なんでもなくてもじわじわと脳出血している時歩かせるとヤバイそうです。その時は血小板が1万台だったので、すぐに止血剤だのCTだのと大変な騒ぎになりました。

あまりにも頭をぶつけるので、ついには「骨髄抑制中のクツ禁止令」が出てしまいました。
当時は気づかなかったのですが今考えると、元気とはいってもやはり貧血でふらついた結果だったのでしょう。治療が終了してからは転ぶことも頭をぶつけることもほとんどなくなりました。




 味覚の変化 back


★味覚の変化★ ☆ 2004/1/8東京都 018 ヒロのママ 


ヒロが入院生活6ヶ月半の間、ずっと通して変わらなかった大好きな物が2つあります!
入院するまでは、好きでしたけど“ここまで”ではありませんでした。

『牛乳』と『チーズパン』です。
牛乳は、朝昼夜の3回の食事の度に300ml〜400ml程飲んでいました。その他の水分は全く飲みませんでした。
先生や看護婦さんからは「牛乳は栄養価も高いから良いね。それに、嫌いな子が多いのにめずらしい。」と言われました。
チーズパンは山崎のパンで、黄色のパンで真ん中に北海道の形をした絵が白抜きされています。1個120円のパンです。これまた朝昼夜と食べ続けました。
もちろん、病院の食事も食べさせようとしましたが、吐き気が多い時などは食事は全く食べてくれませんでした。そんな時に先生から「好きなものを好きなだけ食べさせてあげてください。口から食べるという事は、どんな点滴にも勝ります。」と言われて模索しているうちに、この大好きな2つにはまりました。 
その他は、アイスやプリンやヨーグルトなど、喉越しの良い物は比較的に食べてくれました。

逆に嫌いな物は、ご飯粒でした。これは、ほとんど食べてくれずこまりました。おせんべを食べさせ「原材料は米だ!」と変な理屈を言っていたのを思いだしました(^^)。
白血病で入院していた女の子のママが「抗がん剤治療をすると食べ物の好き嫌いが増し、ものすごく偏食になるらしいよ!好きな物にとにかく頑固に凝るらしいよ」と言っていましたが、どうなのでしょうか?
今は、ご飯もパンも食べています。もちろん『牛乳』と『チーズパン』は今でも大好きです。


★味覚の変化★ ☆ 2003/5/23 神奈川県 002 こうちゃんママ 


現在、発病してから3年弱、治療が終了して5ヶ月になりますが、いろいろありますね。

2才すぎてからの治療中はなぜか、揚げ物に凝っていました。外泊になると豚カツやメンチなんかを毎日揚げていた時もありました。私からするとさっぱりしたものが食べたいのかなって思うんですけど治療中は特に脂っこいものを好みました。病院の食事も揚げ物だったら食べたりしてました。栄養課に無理を言っておかわりをもらったりもしてました。

それからいろいろなものにはまりましたが、とにかく、一度気に入るとそればかりを毎日、毎日食べ続ける感じです。
イチゴジャムパン、ピーナッツバターパン、チーズトースト、納豆ふりかけのご飯、納豆だけ、じゃがいものおみそ汁、ドーナッツ、ホットケーキ、鮭。
それで、食べ飽きると次に食べれるものを探すのに一苦労の日々です。
通算して好んで食べるものといったらリンゴジュース、ヨーグルト、アイス、チーズ、ラーメン、焼きそば、ポテトフライ、スナック菓子。比較的、味のしっかりしているもの(特にスナック菓子)が大好き。薄味のものはすっかり食べなくなってしまいました。

うちの子の場合はいまだに言葉がまだあまり達者ではないので良く分からないんですけど、チョコレート味のものはすべてすっぱくて、野菜は辛いんだそうです。表現力がいまいちなのかなとも思いますけど。ちなみに今はまたとんかつに凝っています。
毎日とんかつ揚げてます。


★味覚の変化★ ☆ 2003/5/22 神奈川県 モモ 


病名は、血球貪食症候群。(肝芽腫ではありません)
簡単に言うと、白血球や血小板がどんどんと食べられてしまう、血液のガンです。
非血縁間骨髄移植と、ドナーリンパ球輸中をして今は週一回の外来でがんばってます。

味覚について・・・ですね。
治療中は病院の規制があり、持込は禁止のため唯一好きだった、ヨーグルトばかり食べていました。いくら大好きな物でも、毎日食べてたら好きな物がきらいになっちゃて・・・。そんな理由からか、嫌いになった物が沢山あります。
移植をしてからは、酸っぱい物はもちろん甘酸っぱい物がダメになりました。イチゴ、柿、りんごジュース・・・
うちの子も麺類は大好きで、特注で素うどんを頼んでそればかり食べてました。
今でも麺類は、大好きです。
現在もステロイドなどの薬を飲んでいるので、止めたときに嫌いな物が、好きになってくれるといいのですが・・・。


★味覚の変化★ ☆ 2003/5/10 神奈川県 003 takaちゃんパパ 


ご無沙汰してます。久しぶりの投稿です。No.003です。
今月のテーマ「味覚の変化」ですが治療中、食事らしいものを嫌がり病院食は全然食べようとしませんでした。外泊できると毎食マクドナルドを食べたがり、味の濃いものを、大変好みました。
また、梅干、それも大粒のものすごく、酸っぱく塩辛いもの、それを毎日かなり食べてました。(つわりの様です)何でもいいから食べれれば良いと思ってました

しかし、退院して2年以上たちますがやはり少し変です。さすがに量は減らしていますが、依然梅干は好きです。


★味覚の変化★ ☆ 2003/5/8 北海道 007 瑞輝ママ 


瑞輝は最初、『納豆』も『ヨーグルト』も『ごはん○すよ』とかが大好きでした。
毎日毎日、『ごはん○すよ』や『ふりかけ』で主食を食べてました。
でも、退院してから全然食べなくなってしまいました。
特に『納豆』はヒドイもので、見ただでオェオェやってしまい話しになりません。
『ふりかけ』も気分でかけたりかけなかったり・・・。かけるって言っても口にほとんどしないでごちそう様でした・・・と言われる始末。
しかし、麺類など口にしやすいものは今でも大好きで毎日麺類でもいい!!という感じです。今でも麺類ならかなり食べてくれます。
臭いのキツイものはあまり口にしなくなったと思います。
体の為にも食べて欲しいのですが、無理に食べさせようとすると吐くマネをするので無理強いはできません。
食事は一番の戦いの場と化してます。


★味覚の変化★ ☆ 2003/5/2 神奈川県 001 そうちゃんママ 


もともと納豆とヨーグルトが大好きで「そればっかり」というほど偏食でしたが、治療を始めてからはいくつかの時期がありました。ご飯だけしか食べない時期。パンにピーナツバターばっかりの時期。こちらは短かったですが・・・。
病院にいるときは何しろ「おかず」は食べず、主食のみ。家ではヨーグルトやアイスなどのお菓子を食べてました。
まあ全般的には「ノド越しのいいもの」でしたかね。抗がん剤の副作用の「粘膜障害」がいくらかあったのかなあと思います。外泊時には麺類なら食べられるという状態でした。

もう治療が終わって丸3年経ちますが、たまに「この子の味覚ってちょっと変・・・?」と思うことがあります。
甘いものを食べているのに「苦い」と言ったり、しょっぱいものを食べているのに「甘い」と言ったり。最初は表現力がまだいまいちだからかと思っていましたが、最近はどうもそればかりではないように思えてきました。化学療法による味覚障害ってけっこう後々まで尾を引くんでしょうかね?




 入院で一番困ったこと back

★入院で一番困ったこと★ 兄弟児のこと ☆2004/12/15 026 奈良県 たあくんママ  


やはり3歳になる上の子のことですね。たあくんの病院は4歳までは原則付き添いというところで、たあくんは近所のママ友達から『コアラ』といわれるくらいいつでも抱っこしててママべったりだったので、私以外に付き添える人がいないし、上の子もママと離れたのはたあくんの出産の時だけで、その記憶からかひとりで私や主人の実家にお泊まりしたことがなかったんです。
私の実家からは主人は仕事に通えないので、主人の実家に預かってもらい、主人も実家から通勤することにしました。
しかし、夜遅い主人が家に帰るまで寝られずに待ってて、朝出勤するときは泣いて送り出してたそうです。病院にもきましたが、毎回大泣きしてエレベーターに乗って帰るので、私も義母も毎回涙がでました。
上の子の精神的にもよくないし、私が付き添いで体調をくずしたりというのがあったので、私の母がしょっちゅう面会にきてたあくんを慣らし、週1回つきそいを交代して主人が週末交代してくれたので、週2回上の子と家に帰って過ごしました。上の子の3歳の誕生日はたあくんの生検手術の日だったのでICUにはいったたあくんのことで気が滅入りながらのお祝いだったのを覚えてます。

3歳の歯科検診で、保健婦さんに事情を言うと『今自我が形成される大切な時期だからなるべく一緒に過ごす時間をつくってあげてください』と言われ、(いやもうこれが精一杯なんですけど)と思ったものです。

そういえば、病気のことを誰にどこまで話すかというのも困った問題でした。
よく会う親しい人にはいっとこうか、親戚はどこまで?しょっちゅうあわない友達には話すと重い話だけにかえって気を遣わせるかなとか。



★入院で一番困ったこと★ 遠方で二重生活  ☆2003/12/31 長崎県 きよか


知り合いの肝芽腫の子供のお母さんからこのホームページの存在を教えてもらってから、かなり頻繁に覗かせていただいていました。今月のテーマ(入院で一番困ったこと)に「私もある!!!」と思いメールをしました。

うちの子も肝芽腫です。今は手術と化学療法を済ませ、健康そのものです。 しかしちょうど1年前、突然の病気の宣告と始まった入院生活に我が家の暮らしは一変しました。 肝芽腫とわかり紹介された病院は、私たちが住んでいる島から飛行機で30分、車で2時間の距離にあり、初めて訪れる未知の町にありました。(ちなみに飛行場まで1時間半)病院に行くのにゆうに半日はかかり、私は4ヶ月半の入院生活のうち家に帰ったのは、退院を含めて4回、主人が会いにきてくれたのは入院を含めて3回。知らない町で面会も少なく、なんとも寂しく心細い入院生活を余儀なくされました。 それと同様、自宅で待つ家族はいきなり母親と一番下の弟がいなくなり、会いに行くことさえできず、寂しさと不自由さにいつ病気になって倒れてもしかたのない状況にまでなっていました。

肝芽腫はめずらしい病気であるし、治療ができる病院も限られている為、私たちのように病気と闘うと同時に、家族との究極の離れ離れ生活を苦しまなければならない人も多いかと思います。もちろん交通費もかなりかかり、家計を圧迫しました。 入院はいろいろ困ったことは多かったけど、家族と会えないことほど辛い事はなかったです。


★入院で一番困ったこと★ 経済問題  ☆2003/12/20 神奈川県 モモ 


入院で一番困った事は、お金の事でした。
小児ガンは、特定疾患があるのでお金はかからない方が大半だと思います。コモモの病気(*肝芽腫ではない)は厄介な事に、歴史が浅く「プロトコールが出来たのは最近の事」と言われました。(6年前の話です)診断された病名では、特定疾患には認定されないので、似た病気の病名で今でも提出しています。
まずはじめに、治療に使う免疫抑制剤は、この病気で使う許可が厚生省から認可されていないので、保険が使えず自費負担になりました。珍しい薬ではなく、臍帯血移植をした時によく使われるようです。発病時は点滴での投薬で、一つ買うのに5千円、余るけど使いまわしはできないので、残ったやつは捨てて次の日は新しいのを使う、なんとももったいない使い方でした。月で計算すると、15万円に消費税。
結局一週間後には飲み薬に変わりましたが、それでも一本買うのに税込みで8万円はしました。それが2〜3ヶ月ぐらいもちます。分けての販売はその病院では出来ませんでした。入院中、なぜか一本がひと月しか持たないことがありました。(こぼされたのか、もしくは投薬量を間違えられてたようです)
そして、抗がん剤治療には付き物の隔離部屋。
何故か保険が利きませんでした。一人部屋しかないので、えらい高くついたかな。なんと一日11000円+消費税。途中から値上がりまでして、一日14000円+消費税に。な、、な、な、なんと、流行病(水痘など)が出て、抗がん剤治療をしていたコモモは個室へ。個室料金2週間がっぽりとられました。「処置をすれば、感染はまずしないだろう」と言う事は、当時は知識もなく、周りに同じような病気の子がいなかったのでわかりませんでした。

今の病院に移植をするのに移る時、一番初めにT先生とお会いしました。
当時病気の事も心配でしたが、この先後いくらかかるんだろうという心配があったので、初めにお聞きした質問は、個室料金と無菌室料金でした。T先生の口から「かかりません」と言われた時は、耳を疑いました。どうしても信じられず、何度も聞き、しまいには事務所まで一緒に行っていただき、入院のパンフレットをもらい安心しました。こんな良心的な病院もあるんだと、主人とウキウキしながら駅まで歩いて帰ったのをよく覚えております。T先生、何度も疑ってすみませんでした。以前にいた大学病院の時は交通費などを含め、何百万とお金を使ったので、とても信じられなかったのです。移植の時は300万(バンクを通じた場合)、海外でドナーさんが見つかった場合は500万と聞いていたので、コモモの命にお金の糸目はないつもりでしたが、やはり負担はあるのですごく心配でした。
当時は、主人の会社は希望退職者を募るほど大変な時期で(今は安定してます)、毎日が必死でした。主人は「親に頼らず、家族3人でやれるところまでがんばってみよう」と言い、いつも両親に甘えてばかりいた私も納得し、今までがんばってこれました。
大学病院に入院した当時は、その大学病院で小児ガンを受け入れたのは、コモモが入院した3ヶ月前からで、専門の先生が一人しかいませんでした。病院も、看護士さんもまた3ヶ月ごとに変わる主治医の先生も小児ガンの治療はなれていないようで、とても苦労されておりました。色々ありましたが、一生懸命コモモの病気を勉強したり、私の事をいつも心配していただいたりと、良い所もたくさんある病院です。今は小児ガンの患者さんの受け入れが増えたそうで、親御さんたちが、治療に専念できる環境になってきている事を願います。

皆さんが通われている病院は、駅の近くというところは少ないと思います。交通の便が余りよくないところが多いのでは?子供が一緒の時は、よくタクシーを使いませんか?また、白血球が少ない時は、人ごみを避けるためになおさらだと思います。おうちに車があって、運転できるのであば問題はないと思いますが、そうでなければこれは大変な費用がかかります。現に、同じ病院のお友達がそうです。
私の住んでいる市では、特定疾患を持っている人は、月3000円のタクシー券が支給されます。他のところはないようです。前の病院にいる時、雨の日はよく使ってました。お金を気にしないで乗れるので、大変助かりました。(ちょっと足りませんでしたが・・)以前の病院で、節約のため、病院まで40分かけて自転車で行っていた私を誉めてあげたいです。そして、あのアップダウンが多い道のりを電動自転車とはいえ、子供を乗せ通院してくるそうちゃんママもえらいと思います。すばらしい!!


★入院で一番困ったこと★ 付き添いと昼夜逆転 ☆2003/11/5 東京都 018 ヒロのママ 


入院で一番困ったことは、『昼夜逆転生活』でした。
治療をして、最初の1週間は吐き気との戦いでした。1,2クール目は、吐き気もそれほどではなかったので良かったのですが、3,4クールと回数を重ねるうちに・・・。

最初の1週間は吐き気、次の2,3週間は昼夜逆転。最後の4週間目でだんだん夜寝るようになってくる。治療を進めるうちに、だんだんヒロの「治療ペース」がわかってきて、「あっ!夜泣いて目を覚ますようになった」=「白血球が下がってきた?」予想は出来るようにはなりました。
でも、部屋が24時間完全付き添いで、6人部屋だったので、長期治療している方はヒロ以外に1人だけ!
(ちなみに白血病の女の子でした)あとの4人は長い人で2週間、早ければ3日で帰っていきます。
そんな時に夜泣いているヒロをだっこしてあやしていたら『うるさい!』と寝言なのか、本気なのか・・・。それ以来ヒロが夜2時から5時頃まで泣いてしまう時は、「プレイルーム」に親子で看護婦さんに言って寝かせてもらいました。
それでも、月〜金は私が付き添い、土日がパパが付き添いをしていたので、土日に寝だめしていました。
同室になったお母さんに毎朝謝るのも疲れました。そして、「昼間に寝ちゃっているからじゃない」と明るく言われた時にはかなり“へこみ”ました。

その他は、ヒロが一人っ子だし、私の実家が病院から車で15分のところにあるので、食事を差し入れしてもらったりして、かなり助けてもらいました。
でも、「家族総出」という感じでヒロの入院生活を乗り切りました!


★入院で一番困ったこと★ 親の宿泊 ☆2003/11/5 北海道 007 瑞輝ママ 


入院中に困ったことは、私たち親の宿泊のことでした。
病院では24時間完全看護でしたが、実際は小児ガンの子供を持つ親は24時間付き添いと言う状態でした。

個室に入ってる時は簡易ベットだったのですが、そのベットは折りたたみベットではなく、夏に海で貸してくれるようなビーチベットでした。ほとんど個室だったので、そのベットでの寝心地は悪くて腰に負担がかかってしまい、入院中ず〜っと腰痛がありました。子供と同じベットはIVHや点滴のルートが入っていたので危険だという事で絶対に寝れませんでしたが夜鳴きをしてる時だけ、本当に少しだけの時間は一緒に寝ました。
大部屋に入ってた時は、子供たちが昼間遊んでいたプレールームで寝ていたのですが、敷き布団は毛布を重ねて縫ってるだけの薄っぺらい物で、ここも瑞輝が入院した初日、2日目で限界でした。
部屋は暖房が入っていたので寒くはありませんでしたが、寝具がとても悪くて体が痛くて辛かったです。
病院側には24時間付き添いをする人の事を考えて欲しかったです。

何回か病院側に要望として出しましたが、結局退院するまでにその返事はありませんでした。
近くで民宿などはありますが、宿泊費の負担が多くてとってもじゃないけどできません。家から病院まで通うのにバス→JR→徒歩で約2時間ちょっとかかっていました。子供が寝るまでいなかったら次の日に心無い看護師さんから『昨日お母さんが帰って少ししてから瑞輝起きて大変だったのよ〜』みたいな事を言われて、結局完全に寝るまで帰れず最終のバスに乗れなくって旦那に札幌駅まで迎えに来てもらう事も多々ありました。もっと安心して付き添い出来る環境が欲しかったです。

あとは、瑞輝の病院はちょっと変わっていて病棟のある階にトイレはなく、トイレに行きたい時は看護師さんに声をかけて、1階にあるトイレまで行かなければダメでした。ちょっと体調が悪くてトイレが近い時は正直まいりました。病棟は4階でしたので階段で行くか、エレベーターで行くしかなく困りました。
面談室もありましたが、そこは看護師さんやDrも通る通路で話も全部聞こえてる状態でした。完全な部屋があればもっとおじいちゃん、おばあちゃんが来た時に一緒に遊んだり出来たのにな・・・と思いました。

今、瑞輝の入院してる病院は場所が移転する予定なので少しは設備などが良くなっていれば、これから付き添うおかあさん達もツライ思いはしないと思います。
病院側ももっと積極的に付き添ってるお母さん達や毎日来てるお母さん達の話を聞く耳を持って欲しいと思いました。


★入院で一番困ったこと★ 24時間付き添うかどうか  ☆2003/11/5 神奈川県 017いっちゃんママ 


入院で一番困ったことというよりは、悩んだことですが、うちの息子は超ママっ子だったので、入院中私が24時間付き添うかどうかという事でした。
選択肢としては、
@個室で24時間付き添う。(泊まる人は誰でも良い・差額ベット代が15,000円も)
A3人部屋で24時間付き添う。(泊まる人は女性限定・差額ベット代はなし)
B乳児室の完全看護。(面会が週5回、時間が1時間半のみ)

最初の治療の1コースは、息子の精神的な面や治療や副作用がどういうものなのか不安もあり、金銭面に関しては、義父・母が心配しなくていいと言ってくれた事もあり、個室で私が付き添う事にしました。

週一回は主人に泊まってもらって、私は家に帰る事が出来ましたが、とにかく入院当初は先生はもちろん看護師さんでもダメ、何をするにも「ギョエー」という感じで夜中も頻繁に起きていたので、先の見えない入院だったし、この先何ケ月もこの付き添いは無理だなと感じていました。いくらお金の心配はしなくていいと言ってもらえていてもずっと甘える訳にはいかないと思ってもいたので、2コース目からはどうしようかとても悩みました。金銭面だけで考えれば3人部屋もあったのですが、主人に交代で泊まってもらう事ができないので、やはり乳児室しかありませんでした。しかし、毎日会えないのと、あまりにも面会時間が短か過ぎるの事が、最後までひかかっていました。子供は2〜3日で慣れると言っていましたが、超ママッ子の息子だけは例外だと思っていたし、最悪はまた付き添えばいいと言う気持ちで預ける決意をしました。

乳児室に預けて別れる時は、私も本当に辛くて、連れて帰りたい気持ちでいっぱいでした。
でも子供の適応能力は本当にすごいもので、例外だと思っていた息子も4日目くらいからは殆ど泣かなくなったそうです。私と別れる時も最初の2回ぐらいは「ママ〜」と泣いていましたがもう帰ってしまうと分かった瞬間、「おねえさん(看護師さんの事)」と切り替えてましたから。
乳児室はその後手術までの約1ケ月半預けていました。
術後は出来れば付き添ってあげた方がいいと言われたので、付き添う事にしました。
一度付き添ってしまうと、また乳児室に預けるのはとてもせつなく、全摘出できたと言う事で先も見えてきた気がしたので、術後から退院までの約4ケ半は、3人部屋で付き添いました。

今から思えば、乳児室の経験はお互いに少しだけ親離れ、子離れ出来た良い経験だったと思っています。
多分あの経験がなかったら、未だに、超ママッ子の甘えん坊で人見知りしてたかなと思います。
(それでも他の子と比べたら、全然超ママッ子の甘えん坊ですが・・・)
外来も採血はダメですが、それ以外は大丈夫になりました。


★入院で一番困ったこと★ 0才児の預け先 ☆2003/11/3 神奈川県 001 そうちゃんママ 


入院で一番途方に暮れたのは、当時生後2ヶ月だった下の子の預け先です。

初めは病院のソーシャルワーカーに相談して認可保育所を勧められました。けれども生後2ヶ月の子の場合、私立保育園は月額58,000円だった上に、車の免許のない私が面会の前に預けに行くのはともかく、午後7時の面会が終わってから保育園に迎えに行き帰宅するのではとても体力が持たないと思いました。(当時はまだ夜中の授乳も数回あり、入院期間はすでに一年間と言われていました。)
もちろん58,000円も現実問題としてかなり厳しかったです。

そこで今度は区の福祉関係のところへ出向きました。
公立の保育園はどうかと思い当たってみましたが、担当者に「空きはない。それに保育園はそもそも働く母親のためのものだから。だいいち完全看護の病院だから毎日面会に行かなくてもいいんじゃないですか」と言われました。今なら噛みついてやるところですが、当時は怒る気力も時間もなく、それならばと「子育て支援」をする部署に行き事情を話しましたが、やはり預かるには1時間800円かかるそうで、横浜市にはそうした病児の兄弟を預かるための支援制度や優遇制度はないということを知りました。

そうしている間にも入院した子供の心配と乳児の世話でどんどん体力のなくなっていく私を救ってくれたのは、私と夫それぞれの70歳近い2人の母とその家族でした。

近所に住む実家の母は病気がちでコンスタントに来ることは出来ず、茨城に住む義母が「月曜の朝早くに電車で来て、金曜の午後か土曜の朝に実家の母と交代して帰る」というハードな日々を引き受けてくれました。また交通の便が悪い病院からの帰宅の足は、毎日実家の父が会社から帰ってすぐに車で迎えに来てくれることになりました。

2人の母たちにとって乳児の世話と子供の病気のことでピリピリしている私たち夫婦の相手をするのはさぞかし大変だったと思います。入院して7ヶ月を過ぎた頃まず茨城の義母が倒れ、9ヶ月経った頃実家の母が倒れました。2人とも大事にはならずに回復しましたが、入院最後の3ヶ月は子供にとっては辛かったと思いますが、近所の方が何とか時間を作って預かってくれ、面会時間を半分にして退院までこぎつけました。

結果的に切り抜けたと言えばそうなのですが、年寄りにこれだけの無理を強いなければ切り抜けられなかったわけで、やはり長期入院した子の兄弟に対する支援制度は何とかならないものかなと思ってます。




 外泊の目安  back


★外泊の目安★ 2泊3日ごと ☆ 2004.10.15 北海道 No.007 瑞輝ママ


瑞輝の病院の外泊基準は、
 ・好中球が100以上
 ・血小板が極端に減ってない事
 ・熱が出ていない事
 ・ヘパロック出来る状態である事
が条件でした。
基本的には2泊3日で、1度病院に戻り1泊してました。翌日採血をして、何でもなければまた同じように2泊3日してこれの繰り返しでした。

入院中外泊をするまで結構時間がかかりましたが、1度外泊をすると、続けて家に戻る事が出来ました。
瑞輝は、まだ1才ちょっとだったので外泊がいつか・・・っていう事は聞かれたりしませんでしたが、家に戻ると嬉しそうに玩具とかで遊んでました。


★外泊の目安★ 半年に2回  ☆ 2004.9.12 東京都 No.018 ヒロのママ


「ひえ〜、本当に病院によって違うんだ・・・。」と思いました。
改めて、思い返してみたりするとありますね。自分が入院中は振り返る余裕すらありませんからね(^^ゞ)。

ヒロの6ヶ月半の入院生活で外泊は2回だけでした。
その目安は、治療と治療の間というよりは『次の治療を開始する前の土日にかけての3泊4日』という感じでした。なので採血の結果の数値は、正常というか、治療が出来るまでに回復している時に外泊です。
ヒロが6回行った治療のうち、外泊出来たのは4回目の前と6回目の前です。そして、外泊から戻った次の日の朝から治療が開始されました。
嬉しい外泊が「戻ったら、治療か・・・。」と思ったりもしましたが、「よ〜し、頑張るぞ!」とも思え、親子3人「川の字」になってぐっすり眠れた外泊でした。

治療の外泊とは別に、年末退院の予定が風邪をひき熱を出し、年末退院が出来ずに年始退院にとなり「3回目」の外泊をしました。冬退院はインフルエンザや風邪が怖いなと思ったのも事実です。


★外泊の目安★ あまりないかも・・  ☆ 2004.9.11 奈良 No.026 たあくんママ


そうちゃんママとtakaちゃんママの例を読んで少し驚きました。
うちは個室を出たら大部屋で過ごして、ごはんがしっかり食べられるようになったら点滴をロックして、状態がよさそうなら外泊OKでるかなというカンジなので、まだ術後の外泊一度きりです。
まぁ、赤ちゃんというのもあるかもしれませんが。ごはんたべたり食べなかったりのムラもあるので術後2回目の投与から2週間以上たちますが、まだ点滴はいっています。次の投与とのスケジュールを考えると、来週末に外泊できたらいいなくらいの希望的観測です。上の子もいるし、パパは夜遅く帰るので、平日に外泊どうぞといわれてもどうしよっかなーとなるんですけどね。


★外泊の目安★ 外泊の目安をクリアすればいつでもOK ☆ 2004.9.11 神奈川 No.001 そうちゃんママ


うちもtakaちゃんと同じ病院で同時期だったので、全く同じです。

目安を少し具体的に言うと、
「治療がなくて、好中球が100個以上」
「高熱が出ていない」。

これ以外はほぼ外泊でした。「好中球が100個以上」と言うのはドクターによっては300個くらいないと外泊にならない子もいましたが、それはやはり「熱を出しやすい」とかその子その子の特徴に合わせてそうしていたような気がします。
Bランクは好中球500個以下なので、うちの場合Bランクのまま外泊に行き、帰院してまたBランクに入るということがほとんどだったので、大部屋はあまり入ったことがなかったです。
外泊中は基本的に「週に2回」病院に行って採血をし、その結果好中球が大丈夫でも輸血が必要な時は、輸血をやってからまた外泊に行ったり出来ました。

同じ病院ですが、現在は病棟がとても混んでいて治療の時だけ入院して一時退院を繰り返す「クール入院」も多いようです。
すぐにも治療の必要な子がいるのに外泊の子のために空いているベッドが使えないのは確かに問題です。
「クール入院」に出来るのであればそうするのは止むを得ないだろうと思います。

ただこれには問題点もあって、肝芽腫の子のように子供が小さくてお母さんが運転免許を持っていない場合、入退院を繰り返すやり方はお母さんにとって大変な重労働になってしまいます。
「治療が継続しているクール入院の場合、せめてオムツやティッシュの箱や歯磨きセットや入院でしか使わない衣類などだけでも預かってくれるとすごくラクになるんだけど・・・」とクール入院をしていた子のお母さんが言っていました。
医療関係者のみなさま、どうかご検討をよろしくお願いします♪


★外泊のめやす★ 外泊の目安をクリアすればいつでもOK☆ 2004.9.10 神奈川 No.003 takaちゃんママ 

外泊の目安 はズバリ!病院にいなくても良い時は全て外泊です。

治療中、Bランク(*好中球が500個以下の状態。個室管理)以外のときは出来るだけ外泊をして家で過ごさせて方が良いと思います。
うちの場合は出来る限りそうさせて頂きました。病院まで車で30分という立地もありましたので。
子供はもちろん外泊は大喜びでした。
とにかく「病は気から」ではありませんが子供が楽しい時間を過ごす事が出来る事をやるべきです。
入院しているときは小学1年でしたので、院内学級の先生からは外泊中の宿題もきちんと出ていましたねー。




 付き添い 小児がん、特に肝芽腫のように子供が小さい場合は親が付き添って日常の世話をすることがほとんどです。ただしやり方は病院によって大きく2種類に分かれます。ひとつは決まった面会時間の中でしか会えない場合、もうひとつは24時間親の付き添いを求められる場合です。
どちらにも違った大変さはありますが、今回は24時間付き添いの病院でお子さんに付き添った方の経験談を募集します。
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★付き添い★ 24時間付き添い ☆ 2005.10.26 東京都 No.018 ヒロのママ


ヒロが入院していた大学病院は、主に4つのタイプの部屋がありました。
1つ目は、児童の男児の部屋(通称:お兄ちゃん部屋)です。2つ目は、児童の女児の部屋(通称:お姉ちゃん部屋)です。3つ目は、新生児ですぐに帰れずにいる赤ちゃんの部屋(通称:赤ちゃん部屋)です。この3つは、親などの面会は決まった時間しかできない『完全看護』です。

最後の4つ目は、ヒロが入院した部屋です。主に乳幼児の部屋で子供の性別は関係なく、親(または祖父母)が必ず子供の付き添いをしなくてはならない部屋です。24時間の付き添いなので、病気の子供のベットの脇に簡易ベットをひいて夜は寝ます。安全面の為なのか、ベットとベットとの仕切りのカーテンもなく、プライバシーという事は皆無でした。

ヒロは6ヶ月半の間入院していました。その間、我が家はパパが土日泊まりで、私が平日泊まりとパパと2人で付き添い生活を乗り越えました。治療や検査などは休日には行われないので、パパが私の休息の為にと泊まってくれました。

子供の食事は病院食が出ますが、親は各自での調達となりました。私の実家が病院から比較的近くの場所だったのが幸いして、ジジババが毎日運んでくれました。お風呂は、病棟のお風呂を夕方から夜にかけて、付き添いをしている親で交代制で入りました。1人20分という時間しかなく、当たり前ですがゆっくり湯船につかるという事は出来ず、真冬でもシャワーのみでした。

長くいればいるほど、病院が我が家のようになってきて眠れる日々がありましたが、やはり病院は「具合の悪い子」が入ってくるところです。ほとんどの子が長くて2週間前後、短ければ3日前後で退院していきます。大泣きしていて、やっと治ったと思えば退院、そして新しく大泣きする子・・・。我が子が寝ているけど隣のベットの子が泣いていて、眠れないという日々もたくさんありました。

治療が終わり、白血球が下がってくると夜泣きをよくしました。
「うるさい!」と怒鳴られた事もありました。「お互い様なのに!」とヒロを抱っこして廊下で泣き止むのを待った事も多々ありました。今思うと、よくあの生活を頑張ったな〜と本当に思います。

ただ、一緒に付き添いをしたお母さんとは今でも仲の良い戦友のような感じです。種類は違えども「小児癌」という大きな病気に一緒の時期、一緒の病棟で、一緒に寝泊りをした経験は本当に経験した人にしかわからない苦しみや悲しみやもちろん嬉しさがあります。今、寛解を保てているからかもしれませんがこのママ友達は本当に私の宝物であります!

振り返ると『一生懸命』だった・・・、と本当に思えます。


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