26              退院後のこと               


★ 治療記録の「おわりに」
『ある2才児の肝芽腫治療記録』は、もともと平成13年7月(退院は平成12年4月)に身内やお世話になった方々への報告を兼ねてまとめたものです。その時治療記録の最後に『おわりに』と題して私が当時の所感を書きました。差しさわりのある部分は仮名にしましたが、おおむねそのまま掲載します。退院6年後の今はまた違った視点になった部分もありますが、気持ちの上で通ってきた道としてお読み下さい。
(2006.11.14)

                               

おわりに (2001.7付記)

 長男の爽が突然『肝芽腫』という小児がんで入院したのは、2年前の平成11年4月13日のことでした。
 「発症」、「受診」、「転院」、「がん宣告」、「入院」、「手術」。
 これだけのことが月曜日から金曜日までのわずか5日間に起こったのです。
 その後一年間にわたり12回の抗がん剤治療と手術を行い、昨年4月18日に退院することが出来ました。
 今日、ここにまとめたのは、爽が入院していた当時の記録です。

 私は爽の退院後、入院中の『カルテ』、『看護記録』の全コピーをもらいました。入院中は1日5時間しか会えず、2才という大きな成長をする時期にそのこどもの姿を見られなかったという思いが大きかったのと、いずれ爽自身に病気の説明(告知)をする時に、客観的な記録がほしいという気持ちもあったからです。
 コピーそのものでは見にくいのと、「カルテ」と「看護記録」が別々で、その日その時医師と看護師がどのように処置したのかが分かりにくかったため、ならばついでに私がつけていた「日記」も入れて、三者の目を日付順に並べてみようと思い立ったのが昨年の暮れでした。

 自分の幼い子供ががんになる。

 などという体験は絶対にしてほしくありません。けれども、現実にそうなってしまった親としては、こういう子供たちがいて、こういう生活を余儀なくされている、ということをもっと世間の人に知ってほしい。それは入院中も退院した今でも強く思います。
 知らないことによる差別、偏見、無神経な言葉。
 私だけでなく、病院で一緒になったお母さんたちが皆一度ならず体験しました。これからも体験するでしょう。そのほとんどすべてが
 「知らない」
 ということから出てきたものです。

 この「爽の入院記録」は、「医師」「看護婦」「親」がそれぞれの立場と目でその日その日の爽を記録したものをそのまま並べただけです。
 あえて『闘病記』のような手法を採らなかったのは、「記録」という素材の持つ真実味を壊したくなかったことと、毎年全国合わせても20、30人しか患児の出ない肝芽腫の少ない臨床記録としても読めるものにしたかったことと、そして闘病がまだ過去のものになっていないことなどの理由からです。医療従事者でなければ見てもよく分からない採血結果の数値などを全部記載したのも、そういう理由からです。
 今、入院当時を思い返しても
 「よくあんな生活を続けられたな」
 と思いますが、大変な真っ只中にある時ほど、かえって淡々と時が進んでいくもので、こちらの神経も自己防衛のためなのか、ある部分非常に鈍くなっており、また入院した病棟には進行がんと闘う子供たちが多く、
 「治療」
 といえば抗がん剤治療のことを指し、「点滴」、「輸血」、「マルク(骨髄穿刺)」、「骨髄移植」、と言ったおよそ非日常的な単語がごく日常のことばとして当たり前に飛び交っている中にいたからこそ切り抜けられたのかなあとも思います。

 ただ、やはり進行がんの子供が多かったせいか、この世に生まれて数年でその「生」を閉じていく子供たちも多く、その子供たちのあまりにも壮絶な闘いぶりとその親たちの苦悩は今も頭から離れることはありません。
幼稚園が遥か先の遠い夢のまま逝ってしまったTくん、Sくん。
 行きたくて行きたくてしかたなかった幼稚園入園が決まった後に発病して、それでも骨髄移植して頑張って退院し、翌年再度の入園直前に再発し、全身転移の激しい痛みの中、病棟の花火大会をどうしても見たいと言って見た翌朝に亡くなったMちゃん。
 ダウン症という病気を持って生まれ、視力や心臓障害があり2才の時にも一度白血病になりながらもいつも天真爛漫で可愛かったMIちゃん。
 この子たちの冥福を心から祈っています。

爽は今この子たちの分まで、また入院していた時間を取り戻すかのように幼稚園生活を楽しんでいます。体力的には全然ついていけないようで、私もついあせってしまうのですが、「ゆっくり、ゆっくり」と思いながら過ごしています。

 爽の入院に当たっては、医師にも恵まれました。
 嘔吐して最初に連れて行った近所の竹田こどもクリニックでは、
 「よく分からないけど普通じゃないからすぐに大きな病院へ」
 と、地域の基幹病院である済生会横浜市南部病院に行く手配をして下さり、南部病院ではたまたまその日の当直だった先生が、なんと半月前まで神奈川県立こども医療センターの腫瘍科にいた西山先生でした。前にも言ったように肝芽腫は発症率がとても低いので、小児科医を一生やっていても肝芽腫の子供を診ることのない医師の方が圧倒的に多いのに、です。
 そして翌朝には
 「腫瘍に間違いないから、すぐに子供の腫瘍の専門家がいる病院で診てもらいましょう」
と、神奈川県立こども医療センターの腫瘍科を紹介して下さり、その日の昼過ぎにはこども医療センターに入院することが出来ました。

 竹田先生と西山先生のおかげで、爽を最初に診せてからわずか19時間後には(夜間も含めた時間です)数少ない子供の腫瘍の専門家に診察してもらうことが出来たのです。
 神奈川県立こども医療センターに入院してからも、医師に恵まれました。入院中の主治医だった新井心(あらいこころ)先生は、医師としてひとり立ちして最初の患者が爽だったのですが、とても熱心でびっくりするほどやさしく、辛いことの連続だった爽にとってどれほどの救いであったか知れません。退院してから診ていただいている腫瘍科の豊田恭徳先生も、一見大男で怖そうでが、とても子供好きで、入院中も廊下を歩きながら目が合った子供に必ず手を振ってくれるやさしい先生です。
 爽はこども医療センターで診てもらった時には腫瘍が破裂しており、時間が経てば経つほど身体の中にがん細胞がどんどん散らばっていってしまうという状態でした。「分からない」けど「何か変だ」と、抱え込まずにすばやく検査の出来る病院へ送ってくれた竹田先生。「明日もう一度検査しましょう」と言っておきながら、夜中に自分で超音波診断装置を引っ張ってきて何度も何度も肝臓のエコーを診て、「やっぱりここで検査するよりもすぐに専門家に診てもらいましょう」と言ってこども医療センターに送ってくれた西山先生。このお2人がいなかったら、と思うと今でも背筋がぞっとします。

 先のことを考えるとまだまだ不安と恐怖から逃れられませんが、皆さんこれからもよろしくお願いします。

 最後に入院中毎日病院へ通う私の代わりに生後2ヶ月から1才2ヶ月まで弟の慧の世話をしてくれた茨城の主人の母と私の実家の母、毎日東京にある会社から帰って食事も摂らずに私を病院まで車で迎えに来てくれた実家の父、茨城の母の留守中家事いっさいを引き受けてくれた義姉の典子さん、不自由な思いさせてしまった義父、その他お世話になったりご心配をおかけした全ての方々に感謝します。

平成13年7月

★ 退院後1年まで (2000.4-2001.3)
小児がんは、『退院してヤッホー』という病気ではありません。
4月中旬に最後の治療が終わってすぐに退院した爽は、ちょうどゴールデンウィークあたりが骨髄抑制の真っ最中にあたり外出は出来ませんでした。まあゴールデンウィークだから何が何でも出かけたいという我が家ではなかったのでそれはどうということもなかったのですが、退院直後の外来からいきなりAFPが上昇したりして安定しない上に、入院中のストレスから情緒が不安定になったままの爽と1才4ヶ月になった慧の子育ては、「不妊治療と重症一歩手前の妊娠中毒症と妊娠性糖尿病」を乗り越えて出産した42才目前の私には心身ともにきつい1年でした。

爽の状態については、上にも書きましたがAFPが安定せずフラフラフラフラとしていました。
聴力は後日聴力検査のデータも出す予定ですが、夏ごろから「ちょっと聴こえが悪くなったかも・・・」と言う気がしたので、定期外来以外に耳鼻科を予約し検査をしたところ、やはり聴力が悪化していたので大量のステロイドをしばらく内服しました。薬剤性難聴の場合、一度落ちた聴力は戻らないと言われていますが、「落ち初めに大量のステロイドを使うと落ちた分だけは元に戻ることもある」と言うことだったので「期待半分」くらいの気持ちで内服させましたが、上手い具合に落ちた分は回復しました。
この年はまだ幼稚園には入園していなかったのと、慧も連れて運転免許のない私が外出するのはなかなか大変なのであまり遠出をしなかったためか、感染症はあまりかかりませんでした(とはいえ退院9ヶ月目にロタウィルスにはかかっていますが・・・)。
それよりも「退院すればよくなる」と言われていた情緒不安定がなかなか治らないのが気になっていました。周りは皆、「長く入院していたから仕方ないよ」とか、「正常範囲だよ」とか言ってくれましたが、どうにも納得が行かないのと私自身どうやって心を解きほぐしてあげればよいのか方法が分からず苦しかったので、腫瘍科の主治医だった豊田先生に頼んで病院の療育科を受診しました。
療育科では臨床心理士さんが知能テストや面接などで爽を細かく診てくれました。
その結果、心の成長は1才9ヶ月遅れで「社交的というところを除けば自閉症のような症状がある」ということでした。
臨床心理士の先生の話では
「様子を見ているともともとあった遅れや自閉傾向ではないように思います。恐らく長期の入院によるストレスが原因だろう」ということで、しばらく様子を見て行くと同時に先生のアドバイスで私からのいろいろな働きかけもしていくことになりました。
さらに弟の慧に対して兄弟としての認識がどうも希薄で、その点でも当時はずいぶん悩みましたが、この悩みは1年ほどで完全消滅しました。今では学校から帰ると毎日のように2人で遊びに出かけています。ただ『トムとジェリー』のようにケンカもしょっちゅうです(笑)。

爽の1年目まではそんなふうでしたが、私と慧はまた別の問題に直面することになってしまいました。

4月に爽が退院し、5月は骨髄抑制で家にこもり、6月になってから病院で仲のよかった子(と言うより私とそのママが仲良しだったというのが正しいのですが)が移植後の多臓器不全で亡くなりました。悲しいのと同時に「爽も再発したら・・」という恐怖とでものすごくショックでした。
その後7月8月と続けて仲のよかった子が亡くなり、そのたびにだんだんと体調が悪くなりました。8月に亡くなった子のお別れに行ってからは微熱とだるさで自分でも変だなと思うようになりましたが、夏場の暑さで貧血気味になって顔が真っ白の爽とまだ外出の時には抱っこひもが必要な慧を連れて自分が診察に行くのはなかなか大変だったのでどうしようかと思い悩んでいたのですが、8月も終りになるとさすがに自分でも病院へ行ったほうがよいと思い、爽だけを預けて慧を抱っこして病院へ行きました。
いろいろ検査をした結果は特に重大な病気は何もなく、「疲労によるもの」ということでしたが、ただ血糖値が境界なので近所の病院で定期的に経過をみたほうがよいと言われたので、そうすることにしました。
血糖値は微妙に上がり傾向だったのですが、秋になって偶然慧が喘息であることが分かりました。
しかも分かった時点で入院を必要とするほどけっこう重い症状でした。
「今度は慧・・・」とまあ精神的には凹みましたが慧はこども医療センターに入院1日だけで退院することが出来、今後はかかりつけの小児科医で診てもらうことになりました。
自分では表面上けっこう普通にしてましたが、かかりつけの竹田先生のところへ報告に行った時には思わず、
「何か私の育て方にいけないところがあるんでしょうか・・。2人とも病気になっちゃって・・・」と涙目で訴えてしまいました。
先生はにこにこと笑いながら「そ〜んなことないって」と言ってくれましたが、1人になると凹んでました。

そんなこんなで慧の喘息発作も頻繁かつやや重いものが続き、爽の通院やらちょっとした体調不良はしょっちゅう。と言うわけで、「分かっちゃいるけど」自分の血糖値の経過観察はどんどん後回しになり、結果的に秋から翌年2月まで通院できませんでした。
翌年2月(退院後10ヶ月)の時に爽の検査入院のため義母が来てくれて、「2、3日いるから用足しや自分の病院に行っておいで」と行ってくれたのでようやく病院に行った時には何と立派な糖尿病患者になっていました。
ヘモグロビンA1C → 11.5%
空腹時血糖値  → 256

妊娠性糖尿病は私が慧を出産した頃は、「出産すれば治る一過性のもの」と言われていたのですが、現在ではどうもそうではなく「妊娠性糖尿病になった場合はその後もきちんと経過を追って気をつけていないと本物の糖尿病に移行する」という見解になってきたようです。
慧の出産後2ヶ月で爽の入院生活に入ってしまった上に入院時はその日元気に面会に行けることが最優先だったので食事に気をつけることもなく、疲れを取るために甘いものを取り放題のようにしていたのがたたってしまったのかなあと思いますが、まあ今さらそんなことを言っても仕方ないですよね。ただ今闘病中の子の親御さんは、「こんなこともあるんだから」と食事には気をつけて下さい。

その時から爽と慧と私の3人が代わる代わる通院しなくてはならなくなりました。
これだけを読むと『悲運な家族』っぽいですが、当時から現在に至るまで悲壮にもならず変に前向きギンギンにもならず、「そのうちよくなるといいよね〜。悪くならないようにしようね〜。でも薬だけはちゃんと飲めよ〜」という感じで毎月の通院スケジュールをこなしています。
(2006.11.27)

★ 退院後1年〜2年まで (2001.4-2002.3)
退院して約1年後の2001年4月、爽は幼稚園に入園しましたが、実はどこの幼稚園にするかを決めるまでがなかなか大変でした。
第一候補は爽の病気のことを話すとあれこれ理由をつけてあきらめさせようとしました。爽は化学療法の影響ですでに聴力に多少の問題がありましたし、AFPが不安定だったので通院も多く水痘などの感染症が流行った場合はすぐにその情報を必要としました。
けれども別に介助は必要ありません。それでも第一候補の園長は嫌がりました。他にも電話でことわられたりしたところもありましたが、爽の病気のことや感染症の情報をすぐにほしいことなどの要望を快く受け入れてくれたK幼稚園に入園できました。
退院して1年目はロタウィルスやちょっとしたカゼを引くくらいでしたが、幼稚園に入園したとたん、感染症にはいろいろかかるわ毎週末体調を崩して高熱を出すわで、入園した年の1学期は半分も通園出来ませんでした。
入園した幼稚園は『泥んこ幼稚園』として有名で、10年くらい前にNHKの教育テレビ『ETV8』でも45分の紹介をされたほどです。
なので・・・・・汚い(笑)。
不潔という意味ではなく、ヤギはいるわ、鶏はいるわ、アヒルはいるわ、がちょうはいるわ、うさぎにザリガニ、子供たちが採ってきたいろんな虫・・・。田んぼの作業も年間を通してあり、まずは田植えの前に水を張った水田での『泥んこ遊び』。さらに畑があって当然畑の作業もあり、夏場などおやつに『きゅうりのみそマヨネーズ』が出ます。
入園時に「着替えは下着や靴下も入れて必ず3セットずつ園においておくように」という指示が納得できるほど朝登園した時と帰りのバスを降りた時の服装が違い、ひどい時には足にビニール袋を履いてからどろどろのクツを履いて帰ってくることも・・・・・(苦笑)。
おかげで子供が泥んこになることには驚かなくなりましたが、「普通の子」のパワーには圧倒されました。
爽は本当に毎週末39度の熱を出したり、またまたロタウィルスで入院したりしょう紅熱になったりと、入園した1学期は2週間に1度の定期外来の他に入院2回、夜間休日の救急外来4回と散々でした。
さらに夏になるとなぜか血小板が低め低めで顔はいつも真っ白。暑さが厳しいと真っ青でぼんやりとした顔になり、「疲れた」を連発しました。
爽自身は幼稚園をとても気に入っていたので、「疲れた」と言っても「あと1日行けば土曜日だからガンバレ〜」と励ましていたのですが、それをやると必ず土曜日になって高熱を出したり、幼稚園で吐いたりするので、担任の先生とも相談して
「爽自身が疲れたから休みたい」と言った場合には休ませたほうがよいのではないか、ということになりました。

爽と同じ頃入院していて退院した同じ年の男の子もお母さんとのメールでやはり「疲れた・・・」を連発していると聞き、
「やっぱ体力ないよね〜。まあ少しずつついて行くんだろうけど・・・。病気したからって甘やかしすぎちゃいけないけど、現実に体力ないし、見極め失敗すると高熱出すし・・・難しいよね〜。」
などとやりとりしていたところ、その男の子Dちゃんが「再発した」ということが分かりました。
その時の気持ちはもう・・・・・。普通であれば「うちの子体力なくてね〜。」ですむはずなのに、いろいろなことを考えてきちんと体調を見ていってあげないといけないのだと心からそう思いました。
夏休みに入ってすぐに再発の判ったDちゃんは、幼稚園の2学期が始まる日の朝に旅立って行きました。退院してから3年くらいは病院でともに頑張った子たちの訃報や再発を聞くことがものすごく多く、私自身いつも緊張していたように思います。

幼稚園の爽も病院での規則規則の生活から解き放たれてたくさん遊べる幼稚園は楽しかったようですが、用事や参観などで幼稚園に行き、遊んだり絵を描いていたりする爽を見るといつもぽつんと1人で、本人は「友達が出来ない」ということを苦痛に出来るほどの心の成長がまだだったので「辛い」という気持ちはあまりなかったのかもしれませんが、見ている親はどうにも胸がしめつけられるような悲しさを感じてしまうことがありました。

退院した年は何しろ入院していた時のことがありますから、「元気になったなあ」と思うことが多かったのですが、2年目は幼稚園に入ったことで逆に「普通に元気にしてきた子」との差にがくぜんとして「うちの子こんなに病弱なんだ」と思い知らされた年でもありました。
ただ親のいろんな思いとは別に、爽自身はとてもゆっくりとですが前へ向かって成長をしていきました。
(2006.12.7)

★ 退院後2年〜3年まで (2002.4-2003.3)
4月から年長組になり下の慧も年少で入園しました。
もともと3年保育と言うのはあまり考えていなかったのですが、この頃はまだ爽がどうなるのか分からず、「この先何が起きても兄弟で同じところに通った思い出はとにかく作ろう」という気持ちから下の子を入れました。また通院の時の預け先に頭を悩ませることが少なくなるのを期待する気持ちも大きく、はっきり言って下の子のことを考えてのことではなく、爽と親の都合でした。

爽のAFPはだいぶ安定するようになり、もちろん検査後のドキドキは相変わらずでしたが四六時中緊張感にさらされるという感じではなくなりました。また爽も年中組で次々と感染症にかかったせいか、逆にこの頃になると感染症には妙に強くなり、その後も現在に至るまであまり「カゼ」を引くことはありません。水痘やおたふくなどはこの時期に罹りましたが、予防接種をやり直していたためかものすごく軽くすみました。

この当時、爽がこども医療センターでかかっていた科は
・腫瘍科
・耳鼻科
・療育科
・歯科
・言語治療科
の5つです。言語治療科は2003年に入って補聴器をつけるために受診し、その時に言語トレーニングが必要と診断されてから初めたもので、最初の6ヶ月はかなりひんぱんに通いましたが、その後は断続的に通院し、現在は完全に治っているわけではありませんが学校で特に不自由を感じることもないのと学校が中学年になり6時間授業が多くなったので通わなくなってしまいました。
余談なのか重要なのか分かりませんが、昨年の9月から本人の希望で英会話を初めました。日本人の先生ですが授業中は完全に英語です。始める時にはそこまで考えていなかったのですが、授業参観の時に現在の爽にとってこれが最善の「言語トレーニング」になっていることを発見しました。なにしろ本人はABCもろくに読めない状態で通い始めたので、「聞くこと」「発音」を日本語以上に集中しなくてはならないからです。言語トレーニングそのものはわりと単調なのではっきり言うと「つまらない」ので通わなくなった部分もあり、この点やりたいと思って始めた英会話は退屈ではないのです。棚ぼたであり、一石二鳥であり、目からウロコでした。

2002年11月には、『就学児検診』がありました。
退院時に「5年生存率は60%」と言われていましたから、小学校に入れるようになるという実感はこの時が最初です。
大勢が小学校の体育館に集まりましたが、そういう中に入ると元気になった爽でもどうしても「小さくて弱々しい」感じにみえ、と言うかどうひいき目に見ても「小さくて弱々しい」ので心配は心配でしたが、とにもかくにも「ここまで来たぞ!!」と言う思いでした。
ただこの体育館で会話がよく聞き取れないことが判明し、前述した補聴器をつけることになって言語治療科を受診することになったのです。
「補聴器までつけるのは可愛そう」
と思う人もいるようですが、目の悪い人が眼鏡をかけるように耳の聞えが悪ければ補聴器をつける。補える手段があるのならそれを使えばよいだけのことです。なんぼのものでもないと思うので全く悩むことなくつけました。
ただし高音急墜型に対応できるデジタル補聴器は超お高かった(泣)のと、補聴器に対する周りの理解を深めてもらうための親の努力は繰り返し必要でした。

私にとってはこの年は『肝芽腫の会』を立ち上げようと002こうちゃんママと一緒に故豊田先生にお願いし快諾していただいた年でもありました。ただし簡単に立ち上がったわけではありません。
最初にこうちゃんママと立ち上げようと具体的なことを考え始めた時に、寛解で退院を翌週に控えていたこうちゃんが再発しました。
私1人ではとても無理なので断念しようとしましたが、
「うちは再発しちゃって私はほとんど手伝えないかもしれないけれど、できるだけのことは手伝うからやりましょうよ」
というこうちゃんママの一言で決心がつきました。また当時豊田先生はすでに大腸がんの再発の手術をし、化学療法を受けながら勤務していたので、無理かなと思ったのですが、やはり一番信頼できる先生だったのでお願いしたところ
「元気なうちはアドバイザーでも顧問でも何でもやるよ」と言って下さったのも立ち上げへの大きな力になりました。
3人とも「気軽にまず立ち上げて・・・」と考えるタイプではなかったので、どういう会にするか、長く続けるためにはどういう活動をしていくか、最も重要なことは何かなど、会ったりメールしたりしながら意見交換をしていき、ホームページを中心とした会にすることを決めましたがホームページ作成についての知識が誰にもなく、『ホームページビルダー』のあんちょこを購入し、「サイト」の意味すら判らないところから始めて2ヶ月半かかってホームページを作成し、公開にこぎつけたのは2003年2月25日。
その日が偶然豊田先生の誕生日だったと知ったのは先生が亡くなる3ヶ月前でした。 (2007.1.24)

★ 退院後7年〜8年まで (2006.4-2007.3)
あいだがぬけていきなり「7〜8年後」になってしまいましたが、その間の分は近々アップするようにします。m(_ _)m
なぜ突然8年後になったかと言うと、昨日(.4.12)の夜がちょうど発症して8年目だったからです。
5年目くらいまでの生々しさや苦しさとは違いますが、やはり思い出すものです。

さて、爽はこの1年、身体面ではかなり落ち着いてきました。
以前はしょっちゅうだった急激な腹痛と嘔吐もこの1年で救急外来に行くほどの痛みは1回でした。5年目の頭蓋内出血による血腫のため控えていたスイミングに通うようになりましたし、聴力が不安定になることもそれほどありませんでした。
ただ、2才当時から大きかった扁桃腺のために睡眠時無呼吸になることが多く、朝の頭痛が頻繁だったために去年の夏、思い切って扁桃腺を切る手術をしたことと、本人が身長のことを気にし始め周りとの差がどんどん広がっていくので内分泌を調べるための入院はしました。
扁桃腺を切ったことでよく眠れるようになって朝の頭痛はなくなり、成長ホルモンも少なめではありますが正常範囲内で出ていました。(これからすごく大きくなることはなさそうとのことですが・・・)
入院していた頃やAFPが落ち着かなかった頃にはどうでもいいじゃないかとさえ思っていた「贅沢な悩み」を悩みとして感じるようになりました。本当の意味で「普通の生活」に戻ってきたのだと思います。
今でも腫瘍科・外科・耳鼻科・歯科・眼科・内分泌科・療育科にかかっています。
通うのを止めようと思えば止められる科もありますが、大人になった時に「もう大丈夫」と思えるようになればよいことですし、「健康であることを誇示する」必要もなく、あるがままでよいと思っています。

精神面では普通はよく「9才の壁」と言って、小学校3年生に大きく精神的成長をすることが多いそうですが、爽はたぶん今がその時のように感じます。1年〜2年くらいゆっくりだったのかな。今までははっきり言って、「同じ学年の子が普通に出来ることができない」とかいろいろ悩み、本人も悩んで、私はカリカリし本人もモヤモヤし、いじめ問題もあったりして大変なこともありましたが、このところ急に出来るようになってきました。(勉強のことと言うよりも「連絡帳をちゃんと書いてくる」とか、「金曜日には体操着とうわばきを持って帰る」とか、2学年下の弟が苦もなく出来ることがなぜか出来なかったのです。)
こうやって文章を書いていると「爽はゆっくりなんだな」と言うことがはっきりと分かるのですが、日常の生活の中で慌しくしていると、ついつい「何でこんな簡単なことが出来ないの!」とか怒鳴ることもしばしばの私です。忙しく動いている時ほど生き生きとしている人もいますが、私は逆のタイプなので極力ゆっくりを保つようにしていますが、なかなか思うようにはいかないもので、忙しくなるとカリカリしてしまいます。
成長していかなきゃいけないのは爽だけじゃないってことですね。 (2007.4.13)