14 1999.10.20-11.3 (入院190日目〜入院204日目) |
★ ちょっと寄り道(13) 下の子の登園拒否 | |
今回はちょっと長くなってしまうのですが、病気の子の兄弟児の問題というのは最近になって取り上げられるようになり、我が家も同じような経験をしたので書いてみたいと思います。 99年10月の当時、生後9ヶ月になろうとしていた次男は、1才2ヶ月になって爽が退院するまで『母親』・『父親』・『父方祖母』・『母方祖母』・『お隣のママ』などに交代で育てられ可愛がられました。爽は退院後もいくつかの科にかかっていたので通院が頻繁でしたが、こども病院では待ち時間も多く、爽もまだ3才でしたので2人を連れて行くことはとても出来ず、またどうしても預かり先がなくて連れていくと診察中も2人がちょろちょろして主治医の話をほとんど聞くことが出来ないので、多くの場合誰かに預かってもらっていました。 幼稚園は爽の通院の時預けなくてすむのと、爽が小学校入学まで元気でいられるのだろうかという思いつめた心配があり、『せめて一緒に通った思い出も作りたい』と言う2つの大きな理由から次男の気持ちは全く考慮せず年少から入園させ、通院の朝は幼稚園のバス停まで送り、他のお母さんにあとを頼んでそこから爽とタクシーで病院へ向かいました。また当時は爽も急に体調が悪くなりこども病院へ救急で連れていくことも頻繁にあり、そういう時は誰かに(ほとんどは祖母)預かってもらうのですが、次男はそういう時に一度もぐずったり嫌がったりすることはありませんでした。そういう場合の私や周りの大人の張り詰めた顔を見て、彼なりにそういう時はわがままを言ってはいけないと頑張っていたのだと思います。私たちが出かけた後の幼稚園バスのバス停で皆から離れて一人で泣いていたことが何度かあったそうです。 そんな次男が年中組になった3学期から登園拒否を始めました。 兆候は年中の9月頃から出始めました。ちょうどその頃爽の通院の間隔が少しのび以前よりは病院へ行く回数が減ったことと、3年目になりAFPが安定するようになって私自身少し気持ちに余裕が出来てきて、心身ともに「少し楽になったな」と思ったとたん入れ替わるように「幼稚園に行きたくない」と訴えるようになりました。最初は何とかなだめていろいろ話を聞いたりすれば納得して行っていましたが、幼稚園でもいろいろとあったようで2学期の終りには園バスのバス停へ泣き叫ぶのを引っ張っていくような状況でした。 そして年が明け、2学期に園の視力検査で遠視を指摘され私と2人で眼科へ通い始めたとたん、幼稚園には全く行きたがらなくなりました。眼科では弱視と乱視の疑いありとのことでしばらく通うことになり(結局弱視と乱視ですぐにメガネを作ってかけたところ幸い半年で弱視は治りましたが現在も遠視と乱視は残っているのでメガネをかけています。)、帰りに2人でハンバーガー屋でハンバーガーを食べた時、すごくうれしそうな次男に少し気づきました。その後眼科に行く前日からとてもうれしそうにしている次男の様子を見ていて最初は、「病院行って大嫌いな目薬をするのに何で喜んでるんだろう?」と思っていましたが、やがてその理由に気づきました。 「私と2人きりで病院へ行って、帰りにごはんを外で食べて帰ってくるのがうれしいんだ」と。 普通具合が悪かったり血を採るために病院へ行くなんて、ちっともいいことじゃないと思いますが、次男にとっては『兄ちゃんがお母さんと2人で病院へ行って病院の食堂でごはんを食べて帰ってくる』ことはうらやましいことだったのです(余談かもしれませんが、次男は爽の補聴器も『かっこいい』と思っているふしがあり、自分がメガネをかけることになった時もうれしそうでした。)。でも爽の病気のことでいっぱいいっぱいだった私は、「普段は甘えん坊だけど病院へ行く時はいかなる場合もぐずらないききわけのよい子」である次男の言葉にならないそうした気持ちに気づかずにいたのです。次男が「幼稚園に行きたくない」と言い出したのは、通院回数が減って私の気持ちに余裕が出来た時期とぴったり符合します。最初は「爽がやっと安定してやれやれと思ったら、今度は次男か・・」とため息が出ましたが、でも次男はずっと私を独り占めして甘える時間が欲しかったのに大変そうな私を見てそんなことは一言も言わず、態度にも表さず、私が少しだけ楽になる時まで待ってくれたのです。 幸い早くそのことに気づいた私は、登園拒否について担任から何度も「連れてくるように」と電話があったにもかかわらず、夫や爽が診てもらっている臨床心理士の先生とも相談し、「最悪、幼稚園は行かなくてもよいから私との時間を充分に取ることを最優先にする」ということに全く迷いはありませんでした。もっとも行きたがらない次男を登園させるために「病院へ行くときはぐずらないなら『病院へ行くから』って言えば登園するんじゃないですか。ほら、ウソも方便って言うし。あはは・・」と笑いながら言った担任に私が呆れ果てたというのも大きな理由でしたが。 次男は結局卒園までたまに「私と一緒」という条件下でのみ登園するだけで登園拒否は続きましたが、この時期私と2人だけの時間を多く持てたことで、小学校に入ってからは担任にも恵まれ登校拒否することはなく、2年生になった今、元気に学校に通っています。 (2006.5.12) |
★1999.10.20(水) こども医療センター入院 190日目 第7回抗がん剤投与開始 | |
AFP 13(↓) |
★1999.10.21(木) こども医療センター入院 191日目 第7回抗がん剤投与2日目 | |
[状態] |
★1999.10.22(金) こども医療センター入院 192日目 Bランク・7回抗がん剤投与3日目 | |
AFP 14(↑) |
★1999.10.23(土) こども医療センター入院 193日目 Bランク・7回抗がん剤投与4日目 | |
[状態] |
★1999.10.24(日) こども医療センター入院 194日目 Bランク・7回抗がん剤投与5日目 | |
[状態] |
★1999.10.25(月) こども医療センター入院 195日目 Bランクのち外泊 | |
AFP 19(↑) |
★1999.10.26(火) こども医療センター入院 196日目 外泊 ・ 一時帰院 | |
[状態] |
★1999.10.27(水) こども医療センター入院 197日目 帰院のち外泊 | |
AFP 19(→) |
★1999.10.28(木) こども医療センター入院 198日目 外泊 | |
[状態] |
★1999.10.29(金) こども医療センター入院 199日目 Bランク | |
AFP 18(↓) |
★1999.10.30(土) こども医療センター入院 200日目 Bランク | |
[状態] |
★1999.10.31(日) こども医療センター入院 201日目 Bランク | |
[状態] |
★1999.11.1(月) こども医療センター入院 202日目 Bランク ・ 病棟内隔離 | |
AFP 16(→) |
★1999.11.2(火) こども医療センター入院 203日目 Bランク ・ 病棟内隔離 | |
[状態] |
★1999.11.3(水) こども医療センター入院 204日目 Bランク ・ 病棟内隔離 | |
[状態] |