14   1999.10.20-11.3  (入院190日目〜入院204日目)

★ ちょっと寄り道(13) 下の子の登園拒否
今回はちょっと長くなってしまうのですが、病気の子の兄弟児の問題というのは最近になって取り上げられるようになり、我が家も同じような経験をしたので書いてみたいと思います。

99年10月の当時、生後9ヶ月になろうとしていた次男は、1才2ヶ月になって爽が退院するまで『母親』・『父親』・『父方祖母』・『母方祖母』・『お隣のママ』などに交代で育てられ可愛がられました。爽は退院後もいくつかの科にかかっていたので通院が頻繁でしたが、こども病院では待ち時間も多く、爽もまだ3才でしたので2人を連れて行くことはとても出来ず、またどうしても預かり先がなくて連れていくと診察中も2人がちょろちょろして主治医の話をほとんど聞くことが出来ないので、多くの場合誰かに預かってもらっていました。

幼稚園は爽の通院の時預けなくてすむのと、爽が小学校入学まで元気でいられるのだろうかという思いつめた心配があり、『せめて一緒に通った思い出も作りたい』と言う2つの大きな理由から次男の気持ちは全く考慮せず年少から入園させ、通院の朝は幼稚園のバス停まで送り、他のお母さんにあとを頼んでそこから爽とタクシーで病院へ向かいました。また当時は爽も急に体調が悪くなりこども病院へ救急で連れていくことも頻繁にあり、そういう時は誰かに(ほとんどは祖母)預かってもらうのですが、次男はそういう時に一度もぐずったり嫌がったりすることはありませんでした。そういう場合の私や周りの大人の張り詰めた顔を見て、彼なりにそういう時はわがままを言ってはいけないと頑張っていたのだと思います。私たちが出かけた後の幼稚園バスのバス停で皆から離れて一人で泣いていたことが何度かあったそうです。

そんな次男が年中組になった3学期から登園拒否を始めました。
兆候は年中の9月頃から出始めました。ちょうどその頃爽の通院の間隔が少しのび以前よりは病院へ行く回数が減ったことと、3年目になりAFPが安定するようになって私自身少し気持ちに余裕が出来てきて、心身ともに「少し楽になったな」と思ったとたん入れ替わるように「幼稚園に行きたくない」と訴えるようになりました。最初は何とかなだめていろいろ話を聞いたりすれば納得して行っていましたが、幼稚園でもいろいろとあったようで2学期の終りには園バスのバス停へ泣き叫ぶのを引っ張っていくような状況でした。

そして年が明け、2学期に園の視力検査で遠視を指摘され私と2人で眼科へ通い始めたとたん、幼稚園には全く行きたがらなくなりました。眼科では弱視と乱視の疑いありとのことでしばらく通うことになり(結局弱視と乱視ですぐにメガネを作ってかけたところ幸い半年で弱視は治りましたが現在も遠視と乱視は残っているのでメガネをかけています。)、帰りに2人でハンバーガー屋でハンバーガーを食べた時、すごくうれしそうな次男に少し気づきました。その後眼科に行く前日からとてもうれしそうにしている次男の様子を見ていて最初は、「病院行って大嫌いな目薬をするのに何で喜んでるんだろう?」と思っていましたが、やがてその理由に気づきました。
「私と2人きりで病院へ行って、帰りにごはんを外で食べて帰ってくるのがうれしいんだ」と。

普通具合が悪かったり血を採るために病院へ行くなんて、ちっともいいことじゃないと思いますが、次男にとっては『兄ちゃんがお母さんと2人で病院へ行って病院の食堂でごはんを食べて帰ってくる』ことはうらやましいことだったのです(余談かもしれませんが、次男は爽の補聴器も『かっこいい』と思っているふしがあり、自分がメガネをかけることになった時もうれしそうでした。)。でも爽の病気のことでいっぱいいっぱいだった私は、「普段は甘えん坊だけど病院へ行く時はいかなる場合もぐずらないききわけのよい子」である次男の言葉にならないそうした気持ちに気づかずにいたのです。次男が「幼稚園に行きたくない」と言い出したのは、通院回数が減って私の気持ちに余裕が出来た時期とぴったり符合します。最初は「爽がやっと安定してやれやれと思ったら、今度は次男か・・」とため息が出ましたが、でも次男はずっと私を独り占めして甘える時間が欲しかったのに大変そうな私を見てそんなことは一言も言わず、態度にも表さず、私が少しだけ楽になる時まで待ってくれたのです。

幸い早くそのことに気づいた私は、登園拒否について担任から何度も「連れてくるように」と電話があったにもかかわらず、夫や爽が診てもらっている臨床心理士の先生とも相談し、「最悪、幼稚園は行かなくてもよいから私との時間を充分に取ることを最優先にする」ということに全く迷いはありませんでした。もっとも行きたがらない次男を登園させるために「病院へ行くときはぐずらないなら『病院へ行くから』って言えば登園するんじゃないですか。ほら、ウソも方便って言うし。あはは・・」と笑いながら言った担任に私が呆れ果てたというのも大きな理由でしたが。
次男は結局卒園までたまに「私と一緒」という条件下でのみ登園するだけで登園拒否は続きましたが、この時期私と2人だけの時間を多く持てたことで、小学校に入ってからは担任にも恵まれ登校拒否することはなく、2年生になった今、元気に学校に通っています。 (2006.5.12)

1999.10.20(水) こども医療センター入院 190日目 第7回抗がん剤投与開始 

AFP 13(↓)

[状態]
微熱

[処置]
採血 ・ イホマイド投与 ・ エトポシド投与
(*この日からICE療法、現在のプロトコールでは「ITEC」と呼ばれる治療を始めました。この治療を始める前の腫瘍検討会では「AFPが10〜20なのでもう化学療法はやめてもよいのではないか」という意見がチームの中では出たそうです。当時AFPは『20以下を正常値』としている場合と、『10以下を正常値』と考える場合があり、AFP20以下を正常と考えれば爽はすでに正常値に入っているわけです。けれども主治医を初めとする血液腫瘍科のドクターたちが「経緯を考えると今やめるのは怖い」と反対し、ITECをやることになったそうです。「AFP10以下。欲を言えば5以下をめざします」と言うようなことを主治医から言われた記憶があります。この後明らかに停滞していたAFPが下がり始めたので、化学療法を続行したのは爽の場合は大正解だったと思います。確かに今いろいろな晩期障害で本人も悩んではいますが、AFPが一桁になる前にやめていたら・・・あくまでも素人の私個人の気持ちですが・・・再発していたと思います。)

[採血結果]
好中球        1365                 GOT          33
白血球        3500                 GPT          16
ヘモグロビン   8.2                    血小板       18万6000

[看護記録]
7時すぎ起床。10時、カイトリル (*制吐剤)0.45r30分で点滴ののち採血。
11時、VP-16(*エトポシドの商品名)開始。ウロミテキサン(*出血性膀胱炎予防のための薬)開始。
11時30分、イホマイド開始。微熱あるが上昇せず、水様性鼻汁みられる。鼻声続く。
本日より治療開始。嘔気嘔吐はせず活気あり。機嫌よい。
イホマイド開始後、潜血(+)〜(+−)で経過。ドクターに報告し、潜血続くならラシックス(*降圧利尿剤)投与と。
Ph8前後で低下することなし。
バルン(*尿カテーテル)留置中にもかかわらずベッド上をよく動く。下に下りたいということはあまり言わず。
2つのルート(*赤と白のIVH)とも輸液管理中だが、いじることない。
動くこと多いため、ルート整理してもすぐに絡まってくる。(*赤白ともそれぞれ三方活栓や六方活栓(電気のタコ足配線みたいなもの)をつけており、この日は点滴の管が5本ついている。7回目以降の治療では毎回最大6本の管がつき、すぐグチャグチャ絡まってしまうので、看護婦さんが必死でなおしていた)。
2時35分、VP-16(*エトポシド。本日の分。エトポシドは持続ではなく、毎日その日の分を投与)終了。
18時から40分ほど眠る。19時10分面会終了。
鼻閉(++)ふかふかと鼻を鳴らしている。母も「苦しそうなんですけど、何とか方法はないんでしょうか」と心配気。
Dr.Aに報告するも、ペリアクチンも効かないし、もう少し様子を見るとのこと。
19時40分、バルーンカテーテル抜去。ラシックス(*降圧利尿剤)3r投与。
21時、入眠。

[使用薬剤]
・イホマイド 1g(5ml/h)                          ・ST2
・VP-16(*エトポシドの商品名) 50r(30 ml/h)
・カイトリル (*制吐剤) 0.45r                        ・メイロン 40 ml
・ビタメジン(ビタミン剤) 1A                            ・ラシックス 3r
・ウロミテキサン(*解毒剤・出血予防) 1200r(10 ml/h)

[食事]
○朝食        ごはん2/3杯・みそ汁2/3
○昼食        うどん
○夕食        ごはん・ミートボール(少)
○おやつ       ジョア


1999.10.21(木) こども医療センター入院 191日目 第7回抗がん剤投与2日目 

[状態]
点滴多めに入り30分眠る。

[処置]
イホマイド投与 ・ エトポシド投与

[看護記録]
(朝)熱発ないが軽度体熱感あり。鼻閉昨日日中より悪化。呼吸数変わりなし。
嘔気嘔吐なし。尿潜血(−)から(+)。起きてからとても機嫌よい。倦怠感認めないが、顔面edema(*むくみ)気味。
10時30分、カイトリル(*制吐剤)0.45r投与。
11時45分、ベプシド(*抗がん剤エトポシドの商品名)投与開始。ウロミテキサン開始。
12時、イホマイド開始。
鼻汁・鼻声続くので、本日よりノイチーム・ムコダイン・フストレス(*いずれも鼻炎・カゼなどの薬)服用開始となる。
治療中であるにもかかわらず柵を登ろうとしたり、活動的。食欲はいまひとつ。
(夕方)白ルートより点滴40ml多めに入ってしまう。
夕食中、急に眠りだすも30分ほどして覚醒。母親求めて泣く様子あり。20時30分、入眠。

[医師カルテ]
ベプシド終了後、白のメイン10ml/hのはずが、自然滴下で落ちていたとのこと。寝ているのがちょっと心配だが・・・。→その後起きて元気。

[使用薬剤]
・イホマイド 1r           ・メイロン                   ・ベプシド 50r           ・ビタメジン 1A
・カイトリル 0.45r     ・メイロン 1A              ・ウロミテキサン400r+1200r
・ラシックス 3r            ・ST2

[食事]
○朝食       ごはん1/3
○おやつ     ジョア
○おやつ      ジョア


1999.10.22(金) こども医療センター入院 192日目 Bランク・7回抗がん剤投与3日目 

AFP 14(↑)

[状態]
骨髄抑制

[処置]
採血

[採血結果]
好中球       336               GOT          35
白血球        1400            GPT          15
ヘモグロビン   8万4000       血小板       15万5000

[医師カルテ]
BM suppression(*骨髄抑制)いつもより早い!
(*ほんとに早かったです。爽の場合、CITAの時は治療して1週間くらいしてという感じだったのですが、ITECになってからは治療中から骨髄抑制が始まり、またCITAの時は血小板輸血は毎回しましたが赤血球の輸血はあまりしなかったのにこちらも毎回のように濃厚赤血球の輸血をするようになりました。ただこれは『ITECだから』なのか、化学療法の回数が増えることによってそうなったのか、そのへんははっきり分からないです。)

[看護記録]
6時50分、起床。夜間良眠する。嘔気なく食思良好。
内服は、「赤ちゃん抱っこで」と。排尿量まずまずだが、顔 edema(*むくみ) あり。尿潜血(+)。
鼻汁あるが、一昨日と比べると減少してきている。
本日よりBランク。
外に出たいということはないが、407号室の流しに興味を持ち、「おてて洗いたい」と大騒ぎしている。
9時45分、カイトリル0.45r。10時15分、ベプシド50r。11時40分、ラシックス(*降圧利尿剤)3r。11時55分、ウロミテキサン。
12時15分、イホマイド1r。ウロミテキサン1200r、それぞれ開始。
21時、入眠。23時30分、ラシックス3r。24時10分、尿pH6.5まで低下したため、メイロン1A使用。

[使用薬剤]
・ベプシド(*エトポシド。抗がん剤) 50r             ・ST2
・イホマイド(*抗がん剤) 1r                  ・メイロン 40r+1A
・カイトリル 0.45r                  ・ウロミテキサン400r+1200r 
・ラシックス 3r×2回

[食事]
○朝食       ごはん・味噌汁
○おやつ     ジョア
○夕食       ごはん2杯
○おやつ     ジョア

○爽母
今週は茨城の母に、土日もいてもらうことをお願いする。


1999.10.23(土) こども医療センター入院 193日目 Bランク・7回抗がん剤投与4日目 

[状態]
骨髄抑制 ・ 食欲低下 ・ 微熱

[処置]
エトポシド投与 ・ イホマイド投与 ・ カルボプラチン投与

[看護記録]
午前4時、メイロン1A。尿pH6のため。9時20分、カイトリル(*制吐剤)0.45r。9時55分、(*エトポシド。抗がん剤)50r。12時、イホマイド(*抗がん剤)終了。パラプラチン(*カルボプラチンの商品名)開始。
嘔気嘔吐ないが、食欲低下してきている。おやつなど好きなものは食べられている。水分すすまず。
元気はあり、おしゃべり多いが、昼寝しっかりとる。日中微熱あり。オシッコ出ると教え、オマルで出ること数回あり。
訪室時は、「抱っこして」「もう少し」とナース離さず。遊んであげると大喜び。
(夕方からも)微熱で経過。
面会終了時、「もう1回抱っこ」握手・・・を繰り返し、母を離さず。その後はピングーのビデオ見て泣かずに入眠。

[使用薬剤]
・ベプシド 50r           ・パラプラチン 200r
・イホマイド                  ・メイロン 1A×2回・+2A
・ST2                       ・ウロミテキサン
・カイトリル 0.45r    ・ビタメジンA                  
・コンクライト Mg

[食事]
○朝食        ごはん3/4杯
○昼食        汁のみ
○おやつ      アイスクリーム・ジョア
○夕食        マヨネーズごはん4/5杯
○おやつ       ジョア


1999.10.24(日) こども医療センター入院 194日目 Bランク・7回抗がん剤投与5日目 

[状態]
骨髄抑制

[処置]
エトポシド投与 ・ カルボプラチン投与

[看護記録]
夜間良眠。尿pH6から6.9くらいでなかなか上昇せず、メイロン2回(1時45分と5時)点滴。ようやくpH7.5まで上昇。
嘔気嘔吐なく食思良好。薬を薬杯ごとこぼしてしまい、ナースに叱られるが、「もう1回飲む」とナースに催促する。
12時、パラプラチン終了。個室管理や点滴もつながっていることから、両親にベッタリ甘えている。
時々メソメソすることもあり。便やや軟らかめのため、ラキソベロン(*下剤)中止とする。

○爽父
病室に行くと、爽はベッドの上にミニカーを広げていた。夕方、抗がん剤が終わり、点滴の管も1本になる。帰る時は泣かずにバイバイできた。

[使用薬剤]
・パラプラチン                ・カイトリル
・ベプシド 50r           ・メイロン 1A×2回

[食事]
○朝食        ごはん
○昼食        食べず
○おやつ      ジョア
○おやつ       ジョア


1999.10.25(月) こども医療センター入院 195日目 Bランクのち外泊 

AFP 19(↑)

[状態]
骨髄抑制 ・ 肝機能障害 ・ 下痢

[処置]
点滴ロック ・ 採血

[採血結果]
GOT          65             GPT  32

○爽母
明日まで外泊。
その後2週間外泊なしの予定(下の子、ポリオ接種のため。ポリオは生ワクチンなので感染の危険があるため。)夕方、下痢1回。

[看護記録]
7時起床。夜間まずまず良眠。
食欲いまいち、麦茶はすすむ。嘔気嘔吐なし。
10時45分、点滴終了し、IVHロック。11時30分、外泊へ。

○爽父
7時50分、帰宅。爽が腹巻をして出てきた。皆カゼ気味で下の子もセキをしている。(子供たちは)8時就寝。

[食事]
○昼食        焼きそば・ヨーグルト1/2個・お茶50t
○おやつ      お菓子・お茶50t
○夕食        ハヤシライス・豚汁(汁のみ)・お茶50t
○おやつ       ラムネ菓子


1999.10.26(火) こども医療センター入院 196日目 外泊 ・ 一時帰院 

[状態]
骨髄抑制

○爽母
午前10時のヘパ生プッシュ入らないため、タクシーで病院へ行く。Dr.Aが一応血栓止めを注入し、30分様子を見る。
その後プッシュ出来たため、再びタクシーで帰宅。朝食後、やや下痢。

[看護記録]
IVHヘパ生プッシュ抵抗あると母より電話あり。10時30分帰院される。
帰院時IVH赤ルートヘパ生やや抵抗あり。
少しねじれている感じあったため固定し直してみるが、やはり抵抗あるためウロキナーゼ(*酵素製剤)施行する。

[食事]
○朝食        玉子ラーメン・お茶
○昼食        マヨネーズごはん・ジョア
○おやつ      チョコレート・お茶
○夕食        カレー3皿・お茶200t

○爽母
下の子のポリオはカゼのため中止。


1999.10.27(水) こども医療センター入院 197日目  帰院のち外泊 

AFP 19(→)

[状態]
骨髄抑制 ・ 微熱 ・ 肝機能障害

[処置]
採血

[採血結果]
好中球        400                  GOT          163
白血球        1100                GPT           91
ヘモグロビン   7.4                   血小板        6万8000

(*7〜12クール目までのITECでは肝機能障害も強く出るようになりましたが、これもITECだからなのか化学療法の回数が増えることによるものなのか分かりません。)

[看護記録]
9時45分、帰院。微熱あり。昨日でノイチーム・ムコダイン・フストレスきれており、鼻詰まりは昨日より悪化傾向にあるように思われる。
活気はあり。本日よりノイチーム・ムコダイン・フストレス再開。
11時30分、外泊へ。

○爽母
金曜日まで外泊許可。ただし金曜日は赤血球(赤いの)と血小板(黄色いの)両方を輸血するとのこと。
爽、下の子を泣かせてばかりいる。夜、熱37度5分。

[食事]
○朝食        カレーライス・お茶
○昼食        いなりずし1個半・コーンスープ2杯・お茶100t
○夕食        沖縄そば・お茶100t

○爽母
下の子はさかんにたっちの練習をする。この頃、の歯は上4本・下2本


1999.10.28(木) こども医療センター入院 198日目 外泊 

[状態]
骨髄抑制 ・ 微熱37度3分 ・ 肝機能障害

○爽母
夜、微熱37度3分。
午前中は、茨城の義母に2人を頼み用足しに行く。

[食事]
○朝食        カレーライス・お茶100t
○おやつ     チョコレート・さつまあげ1/2個・お茶200t
○昼食        パン・お茶100t
○夕食      焼きそば・みそ汁(少)・お茶250t


1999.10.29(金) こども医療センター入院 199日目 Bランク 

AFP 18(↓)

[状態]
骨髄抑制 ・ 肝機能障害

[処置]
採血 ・ 血小板輸血 ・ 赤血球輸血

[採血結果]
好中球        150           白血球        600
血小板        3万           ヘモグロビン   6.8

○爽母
10時に病院へ行く。採血結果が出る前からまず血小板(5U)の輸血。
その後、本日はお泊りとのことなので、私は少し買い物に行く。
午後から赤血球の輸血。今回はどちらもアレルギーが出ず、ほっとする。

[看護記録]
10時、帰院。顔色白っぽいが活気あり。10時25分、血小板輸血開始し、12時40分終了。
14時25分より赤血球輸血開始し、16時40分終了。どちらもアレルギー症状見られず。
母への甘え強く、1人になると「抱っこー!」と、ナースコール多い。同室のSくんと合図を送りあいふざけている。
面会終了時も大泣きせずスムーズ。19時、点滴終了しIVHロック。

[食事]
○朝食        玉子ラーメン・お茶200t
○おやつ      ネクター
○夕食        ごはん
○おやつ       ジョア

○爽母
義母、茨城へ帰る。


1999.10.30(土) こども医療センター入院 200日目 Bランク  

[状態]
骨髄抑制 ・ 微熱37度3分

[看護記録]
夜間良眠。
(朝)発熱なく活気良好。Sくん(*同じ年の男の子)とおしゃべりしてすごす。仲がよい。
(夕方)微熱あり。八景島の花火を見て騒ぐも面会終了後早々に入眠。(19時30分)

○爽母
私、偏頭痛のため夫が行く。

○爽父
Bランクの部屋は少し暑い。爽は同室の子のおもちゃが気になって結果的には借りることになる。
夜、八景島の花火が見えるとベッドに立ち上がって、喜んで見る。(*横浜の八景島シーパラダイス。病院は高台にあり、景色がとてもよかったです。)

[食事]
○朝食        ごはん(少)
○昼食        パン1枚半
○夕食        ごはん


1999.10.31(日) こども医療センター入院 201日目 Bランク  

[状態]
骨髄抑制 ・ 熱37度5分

○爽母
明日から11月だというのに、Bランクの部屋はサウナのよう。爽は最近またダダをこねては泣くようになる。

[看護記録]
交代時(午前から夕方)より微熱(37度5分→36度7分→37度)。おしゃべり多く、活気良好。
面会終了時、母親ともスムーズに別れ、泣くことなかった。
Sくんが大泣きしていたが、1人おもちゃで遊んだりビデオを見てマイペースであった。
19時30分、入眠。

[食事]
○朝食        とうふのみ
○昼食        ごはん
○おやつ     アップルジュース
○おやつ     プリッツ

○爽母
茨城の義母、病気とのこと。
下の子、カゼ治らず。ただし発熱はなし。先日買ったソファ来る。

○爽父
母、胃痛のため検査するとのこと。ずいぶん前から痛んだらしいが行かなければと思ってきてくれていたらしい。
(*「身体は丈夫だから大丈夫だよ」と言っていつも茨城から下の子の面倒を見に来てくれていた義母がついに体調を崩して来られなくなりました。当時68才の義母が月曜日に横浜へ出てきて金曜日に帰るという生活は本当に大変だったろうと思います。義母はその後体調を戻し、現在でも畑仕事をしては折々様々な農産物を送ってくれます。先日も『たけのこ』が大量に届きました。)


1999.11.1(月) こども医療センター入院 202日目 Bランク ・ 病棟内隔離 

AFP 16(→)

[状態]
水痘発生のため4東病棟内隔離(これ以降4週間)

[処置]
ガンマグロブリン製剤(*ベニロン)点滴 ・ 採血 ・ ゾビラックス(*抗ウィルス剤)服用開始

[採血結果]
好中球        100                   血小板        1万9000

○爽母
Cくん水ぼうそう発症のため1西隔離病棟へ行く。爽をはじめ4東病棟で水痘の抗体のない子は4週間の病棟内隔離となる。
爽は、Yちゃんと同室で隔離。食器類は、すべて病室から出す時に消毒し、オムツはビニール袋に入れて出す。
一応実家母に私が水痘にかかったことがあるか確認する。水痘になったことのない親は、4週間子供に会えなくなる。
実家父は、昔のことなので「やったと思うけど・・・」確実ではないとのことで、4週間病棟には入らず、外泊時も爽と会えないこととなる。
(*実際に4週間子供と会えなくなったお母さんがいました。子供も部屋から出られない上にお母さんに会えず、しかも外泊も出来ないということで、見ている私たちも辛かったです。うちは幸い私も夫も水痘をやっていて、下の子も外泊に合わせて水痘の予防接種をしたので外泊は出来ました。でも入院して1ヶ月も経たないうちに『MRSA感染』で1ヶ月病室内隔離、入院3ヶ月で帯状疱疹接触により『隔離病棟』で1ヶ月隔離、に続きまたまた病室内1ヶ月隔離になってしまい、仕方ないこととは思いつつも「はぁ・・・また」という状態でした。)

[医師カルテ]
濃厚ではないが、接触(+)と考えたほうがよいだろう。

[看護記録]
午前2時15分、覚醒してナースを呼んでくる。「そうちゃん寝ないの。あそぶの」と。
ナースしばらくお相手し入眠促すが寝る気配なく、しばらく1人にしておくとやっと入眠。
しかしまた5時に起きて大きな声でナース呼ぶ。早朝から活気大。
全身乾燥し、掻痒感あるようで、上肢・下肢をポリポリ掻いている。
「かゆいの?」と訊くと、「かゆいの」と。発疹ないが、ひっかき傷のような感じのものあり。

[使用薬剤]
・水痘高力価ベニロン 2g                   ・ゾビラックス(*内服)                   ・ST3

[食事]
○朝食        パン1枚
○昼食        パン1枚半
○おやつ     ジョア
○おやつ       ミルミル・せんべい


1999.11.2(火) こども医療センター入院 203日目 Bランク ・ 病棟内隔離 

[状態]
水痘隔離 ・ 骨髄抑制 ・ アレルギー症状 ・ 微熱 ・ 体重11.08s

[処置]
血小板輸血 ・ 包交 ・ フィルター交換

○爽母
午後4時より血小板輸血10単位点滴。4時半の夕食直前にプーさんのビデオを見ながら眠ってしまう。
外泊は無理らしいが、何とか方法はないものかと思う。

[看護記録]
乾性セキあり。鼻汁は淡黄色のもの少量見られる。
内服に「赤ちゃん抱っこで」と希望。抱っこし、「あーんは?」と言うと、嫌がりつつも口を開け、内服出来た。
自分の欲求がすぐ満たされないと大きい声を上げたり、おもちゃをバンバン音をさせて扱っている。
コールも多い。ストレス増しているように思われる。
15時30分、ポララミン2r内服。16時、血小板10単位輸血開始。
アレルギー症状出現せず活気あったが、16時30分急に眠りだす。顔色不良気味。30分から40分して覚醒する。
(*ポララミン服用や投与すると突然眠りだすことが多かった)17時5分、輸血終了。
輸血中はなかったが、終了後に腹部にじんましん出現。「かゆい」と。
Dr.Aに報告するが、輸血終了しているのでレスタミン塗布して対応して下さいとのこと。1時間ほどで消失。
母とのお別れスムーズ。昼寝したためなかなか入眠出来ず。
21時15分、入眠。入眠したところで20時分のゾビラックス(*抗ウィルス剤。水痘の治療薬)が遅れて飲ませなければならず、起こしたがすぐに入眠出来た。

[食事]
○朝食        ハム
○昼食        ごはん
○おやつ      ネクター
○夕食        ごはん
○おやつ      お茶


1999.11.3(水) こども医療センター入院 204日目 Bランク ・ 病棟内隔離 

[状態]
骨髄抑制 ・ 転倒しアザ ・ 水痘隔離

[看護記録]
起床後鼻閉感あり、鼻汁もみられる。
母面会中、ベッドの下にいる時、転倒し左前頭部打ち1〜1.5p大の内出血斑出来る。
バイタル著変なし。
母にも注意してもらうよう伝えるが、ベッド柵下げたまま食事の片付けしたりと危険であった。
(夕方から)児が下に下りてウロウロしていても、母「座って食べなさい」と言うのみで、強くは叱れず。
19時30分、入眠。

[食事]
○おやつ     アイスクリーム・お茶
○おやつ     ジョア